13歳の時、「ふろたき大将」の主演で映画デビューし、子役として活動を続けるも、成長するにつれ、子役としての需要がなくなり、自暴自棄になって自堕落な生活を送っていた、石橋蓮司(いしばし れんじ)さんですが、再び、俳優業をやっていこうと気持ちを新たにされます。
「石橋蓮司は子役時代「ふろたき大将」の主演で映画デビューしていた!」からの続き
日本大学を中退しアルバイトを転々
成長するにつれて仕事が激減したことで、俳優業を続けることに葛藤を感じていた石橋さんは、高校卒業後は、日本大学芸術学部映画学科に進学するも、授業が児童劇団と同じようなことをやっているように思えてつまらなくなり、中退すると、
その後は、
自分が本当にやりたいことを探して、今まで無意識でやってたことを、今後は意識してやらなきゃダメだと。でも何をやろうかって、バーテンになろうかとか、アメリカに行ってみようか
と、化粧品の訪問販売、精肉店、天ぷら屋など様々なアルバイトに明け暮れたそうで、
石橋さんは、当時の暮らしを、
そもそも自分で選んだわけでなく、他者任せで流れてきた道なので、役者道がどうこう、というより、(アルバイトは)生活の一部として一所懸命やっているだけでした
と、明かされています。
(ただ、そんな中でも、先生が好きだったという理由で、子役時代に始めた日本舞踊だけは続けていたそうです)
映画「越後つついし親知らず」のオーディションに合格
そんな悶々とした日々を過ごしていた石橋さんですが、当時は、新劇の役者が圧倒的に映画の脇を固め、評価されるという、新劇が全盛の時代だったことから、
自分ももう一度、児童劇団で培ったものではない、大人の芝居をやってみたい
と、思い切って、映画「越後つついし親知らず」(今井正監督)のオーディションを受けると、今井監督にその演技が評価され、見事合格。
こうして、石橋さんは、1964年、映画「越後つついし親知らず」で、ヒロイン・佐久間良子さんを強姦する、女中奉公先のドラ息子役に起用されたのでした。
「劇団青俳」⇒「劇団現代人劇場」
すると、石橋さんは、今井監督に評価されたことで、
まだやれる
と、自信を取り戻したそうで、
新劇の世界をのぞいてみたくなり、1965年、24歳の時には、木村功さんらが在籍していた「劇団青俳」の養成所に入所。
そこで、作家の清水邦夫さん、演出家の蜷川幸雄さん、俳優の蟹江敬三さんと知り合うと、
やがて、唐十郎さんや佐藤信さんほか、数多くの演劇関係者とも知り合い、ますます演劇を本気でやってみようという気持ちになり、
1968年には、清水さん、蜷川さん、蟹江さん、岡田英次さん、真山知子さんらとともに「劇団青俳」を脱退し、「劇団現代人劇場」を旗揚げされたそうで、
後に、石橋さんは、
1960年代後半は、社会的にも政治的にも日本が激動した時代でしたから。安保闘争なんかに対する、自分の見方や肉体表現のあり方を突きつけられて、各劇団は分裂を重ねていったんです。
俺は1968年あたりの、三里塚闘争や、王子闘争にも出かけていったので、闘争の志士と語り合うことも多かったんです。そんな中で蜷川幸雄さんらとも討論を重ね、さらに青俳にいた岡田英次さん、蟹江敬三さん、清水邦夫さんらと現代人劇場を旗揚げしたんです。
蜷川さんの周りには、唐十郎さん、黒テントの佐藤信さん、それから寺山修司さんなんかもいましてね。俺にとっては、一番甘美な時代だったんじゃないかなあ・・・
(「甘美」というのは)社会と演劇そのものとを、直接繋げられるっていうカイカンですね。今思えば冷や汗が出ますけど(笑)
当時は「ひとつの表現によって世の中そのものに切り込める」と青臭く考えていたんです。自分が食べるとか、経済性とかより、表現を先行させるという形で、無我夢中になれた時代でした。
と、語っておられます。
緑魔子と劇団「第七病棟」を旗揚げ
また、1971年には、「現代人劇場」が解散し、翌年の1972年、清水さん、蜷川さん、蟹江さんと共に劇結社「櫻社」を結成されると、
このころは演劇の舞台に出演することが圧倒的に多くなり、映画やテレビドラマへの出演は限られました
と、精力的に舞台に出演。
ただ、蜷川さんが、商業演劇に活動の幅を広げたことをきっかけに、1974年に「櫻社」も解散すると、石橋さんは、1976年、パートナーの緑魔子さんとともに、劇団「第七病棟」を立ち上げ、使用されなくなった、銭湯、廃校、廃病院など、人から忘れられた建物を劇場に見立てて、唐十郎さんや山崎哲さんの戯曲を演じられたのでした。
(ちなみに、劇団「第七病棟」は、4年に1度しか公演を打たなかったため、「幻の劇団」「オリンピック劇団」とも呼ばれていたそうですが、その後、石橋さんが腰を痛めてしまったことが原因で、2000年の舞台「雨の棟」を最後に公演は行われていないようです)
石橋さんと緑魔子さん。