1973年5月23日の朝、突然、「婦女暴行容疑」で逮捕され、留置所に勾留されるも、その後、相手の狂言(嘘)だったことが明らかとなり、不起訴となった、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、この誤逮捕のダメージは大きく、活動停止にまで追い込まれていたといいます。

「吉田拓郎は人気絶頂時「婦女暴行容疑」で誤逮捕されていた!」からの続き

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女子大生A子は朝帰りを両親に咎められとっさに嘘をついていた

女子大生のとんでもない嘘により、「婦女暴行容疑」で逮捕され、留置所に8日間も勾留された吉田さんですが、なぜ、この女子大生は、吉田さんに暴行されたなどど嘘をついたのでしょうか。

実は、この女子大生A子は、吉田さんと一緒に飲んだ日、両親には友人の家に泊まると嘘を言って朝帰りしていたそうですが、両親に嘘がバレて責められ、とっさに、吉田さんに暴行されたと口走ってしまったというのです。

そのうえ、A子には、吉田さんと飲んでいた時に一緒にいたボーイフレンドとは別の婚約者がいたそうですが、この婚約者もこの晩のことを知り激怒したことから、A子は、ますます、引っ込みがつかなくなり、吉田さんを告訴せざるを得なくなってしまったというのです。

活動停止に追い込まれるも逆告訴はしなかった

ただ、この後、現場にいた人たちが次々と証言したことで、A子側が告訴を取り下げ、吉田さんは「嫌疑なし不起訴」となって、釈放されたのですが・・・

吉田さんは、この事件によって、ツアーが中止となり、吉田さんの曲が使用されているCMは自粛、ほかのアーティストに提供した楽曲までもが放送禁止になるなど、活動停止に追い込まれるほどの大きなダメージを受けたのでした。

それでも、吉田さんは、逆告訴しておらず、

母・朝子さんの、

これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はお前にはない

という言葉で、思いとどまったといいます。

マスコミと険悪な関係だったことでより激しいバッシングを受けていた

ところで、このような証拠もない不確かな事件が、なぜここまで大騒動に発展したかというと、

吉田さんは、当時、「テレビ出演拒否宣言」をしていたほか、チャラチャラしたテレビを低く見て、取材を拒否したりしていたそうで、

(これは、吉田さんだけではなく、1970年代のフォーク歌手は、目立つためのパフォーマンスとしてテレビには出ない、というのが当たり前の時代だったそうです)

マスコミは、この態度が生意気と吉田さんを良く思っていなかったそうで、今回の事件では、ここぞとばかりに、バッシングしたのでした。


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(ちなみに、不起訴となった後も、マスコミから吉田さんには一切謝罪はなかったそうです)

神田共立講堂での復帰コンサートでは悔しさをにじませていた

さておき、吉田さんは、1973年6月3日には、もともと予定されていた、神田共立講堂のコンサートに無事出演を果たすと、

(南こうせつさん、泉谷しげるさん、遠藤賢司さん、ムッシュかまやつさんなど錚々たるメンバーが駆けつけてくれたそうです)

23日か24日に、はっきり覚えていませんが、突然、警察の人が来まして、突然、逮捕されて、突然、手錠を掛けられて、突然、金沢に連れてかれて、突然、留置場に放り込まれまして、決して人間の住む所じゃないと思います。

それにも増して、警察の人は、相手方のことは色々調べたにもかかわらず、僕の事は何も調べずに、僕に手錠を掛けて、金沢に連れて行ったという、警察の横暴さにすごく腹が立っているわけです。

先月、ここでリサイタルをやる予定でいたわけですけども、病気でぶっ倒れて中止になりました。それでまた、今度みたいな事件を起こして、皆さんにすごく迷惑かけたことを心からお詫びします。

練習も全然してない、何せ今日、東京に帰ってきたばかりで、うまくいくか分からないけれども、最後までやってみたいと思います。

と、挨拶し、

拍手とともに「おかえり!」という声援が飛ぶ中、

今日までそして明日から

私は今日まで生きてみました
時には誰かの力を借りて 時には誰かにしがみついて

私は今日まで生きてみました
そして今私は思っています 明日からもこうして生きていくだろうと

私は今日まで生きてみました
時には誰かをあざ笑って 時には誰かにおびやかされて

私は今日まで生きてみました
そして今私は思っています 明日からもこうして生きていくだろうと

私は今日まで生きてみました
時には誰かに裏切られて 時には誰かと手をとり合って

私は今日まで生きてみました
そして今私は思っています 明日からもこうして生きていくだろうと

私には 私の生き方がある
それはおそらく自分というものを知るところから始まるのでしょう

けれどそれにしたって どこでそう変わってしまうのか
そうです わからないまま生きて行く 明日からのそんな私です

と、「私は今日まで生きてみました」で始まる「今日までそして明日から」という歌を熱唱。

そして、その後もライブは続くと、吉田さんは、演奏の合間には、

留置場って夜眠れない、9時就寝で寝ようとしても3畳の板の間を電気が煌々と照らしている。朝6時に起こされ、夜9時に寝るまで横に寝そべってはいけない。便所は丸見え、24時間勤務の看守が監視している。

と、留置場の様子を伝えつつ、

ラストは、自身の楽曲「人間なんて」(1971年発売)の替え歌、

みんな、みんな檻(おり)の中、兄弟、家族檻の中、友達、恋人檻の中、学校社会檻の中、日本、平和檻の中、自由という名の檻の中、人間なんてララララララッラ~

ある日、突然警察が来て、手錠をかけて金沢へ 俺の言い分も聞かないで相手の言い分だけでタイホして あなたは潔白ですから釈放しますと言いやがる

10日あまりの日にちを、俺の10日間を返せ!返せ!俺の10日間を 人の自由を奪う権利があるのか 笑い事で済ませるものか 俺の怒りがわかるか! 人間なんてララララララララ~

で、その悔しさをにじませたそうです。

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弁護士との対談で壮絶な逮捕劇を語っていた

ちなみに、当時、吉田さんの弁護を担当した弁護士の久保利英明さんは、まだ20代だったそうですが、吉田さんの所属レコード会社「CBSソニー」の大賀典雄社長(後のソニーの会長)より、

拓郎は決してそんなことをする男ではない。こんなことで潰(つぶ)れるような男ではない。久保利さん、徹底的に闘ってください

と、依頼され、金沢に飛んで吉田さんの弁護をしたそうで、

吉田さんは、1976年、「For Life 1976 創刊春号」の中の、久保利さんとの対談で、

吉田さん:あの事件までは弁護士とは全然縁がなかったし、話したこともなかった。第一、弁護士というのがどういう職業かも知らんかったのだけど、あそこへ入ってとにかくすごく怖かったんだよね。

久保利さん:警察というか、権力というものは怖いものだと思ったでしょう。

吉田さん:思いましたね。いきなり逮捕され、手錠なんかかけられ引きずり回されてね。あんなに簡単に逮捕なんかしていいものなんなのだろうか。それから留置場というところ、これがまた怖い。

久保利さん:普通の怖さとは違った意味でね。

吉田さん:そうなんですよ。すごい孤独感。接見禁止で誰にも会えない。唯一何ができるかっていうと弁護士に会うことなんだね。窓越しに。それがとっても1日の楽しみなんですよ。

それから取調べが楽しみになってくるんだよね(笑)。だが実はここが怖いんだなあ。取調べが終われば保釈で外へ出られるから、やりもせんことでもやったって言ってしまいたい気になる。

よく色んな事件で、被告が公判の席で自供をひるがえすってことがあるでしょう。警察で脅かされたとかいって。ああいうことは実際にあると思うね。ぼくだって久保利さんが来て「そんな弱気を出しちゃダメだ」と力づけてくれなかったら、あぶなかった・・・(笑)

と、壮絶な体験を語っています。

「吉田拓郎は森進一に提供した「襟裳岬」がミリオンセラーとなっていた!」に続く

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