映画「日本の黒幕」のクランクアップ直前に、自身が書いた脚本のラストに納得できず、公開延期を希望するも、「東映」には無下に却下され、腹を立てて降板したという、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、その後、「日本の黒幕」は降旗康男監督に引き継がれ、完成し、公開されるも、興行は振るわなかったそうです。

「大島渚が「日本の黒幕」の監督を降板した理由とは?」からの続き

Sponsored Link

映画「日本の黒幕」は大島渚が降板後、降旗康男監督で製作され公開されるも興行は振るわず

映画「日本の黒幕」の監督を降板してから3日後の1979年8月6日の読売新聞の夕刊のインタビューで、無念さをにじませていた大島さんに対し、

「東映」の岡田社長はというと、朝日新聞の夕刊(1979年8月6日)で、

大島君は黒幕の実録的な面をねらい出したかったようだが、うちとしては『日本の首領』の姉妹編を作ろうという考えだった。

わかりやすくいえば通俗ドラマで、彼は通俗ドラマでは満足しないということだろう。シナリオはあるので封切り日は変えず、別の監督で作る

と、語っており、

実際、この「日本の黒幕」は、急遽、降旗康男さんが監督を務めることになると、脚本は、(大島さんが床に叩きつけた)高田宏治さんの書いたものが使用され、予定どおり公開。

ただ、本来、この映画は、大島さんが監督をするという触れ込みで大きな話題になっていたことから、監督の交代で興行は振るわなかったそうです。

「東映」のプロデューサー・日下部五朗は懲りずに大島渚に再オファーしていた

また、「日本の黒幕」の映画化を大島さんに依頼するも、公開までのスケジュールが切迫する中で大島さんに降板され、さぞや痛手を受けたであろうと思われる、「東映」のプロデューサー・日下部五朗さんはというと、

著書「シネマの極道 プロデューサー一代」の中で、大島さんについて、

彼の中に政治信条とはまた別の、一種右翼的な心性を見ていたから、やくざ映画を撮って貰いたい気持ちに変わりはなかった

と、語っており、

実際、その後も、これに懲りずに大島さんに別の企画を持ちかけ、大島さんに、「(東映は)声をかけてくれる会社」と言わしめるほどで、それほど、大島さんがヒット作を生むと信頼していたようです。

(その企画とは、山口組組長の田岡一雄さんを描いたドキュメンタリーだったそうですが、1981年に、田岡さんが他界したことで、この企画は立ち消えとなったそうです)

Sponsored Link

三上博史に詫び状を送っていた

ちなみに、「日本の黒幕」で、直接、大島さんに売り込み、少年テロリスト役に決まっていた三上博史さんによると、その後、大島さんから詫びの手紙が届いたそうで、そこには直筆で、

今回、僕はホンを投げてしまいました

あなたのよい未来をお祈りします

と、書かれてあったとのことです。

「大島渚は昔「戦場のメリークリスマス」が世界中で公開され高評価を得ていた!」に続く

Sponsored Link