高校卒業後の1949年、新人発掘イベント「ニューフェイス・ノミネーション」に応募すると、約6000人の応募者の中から見事合格し、映画界入りした、香川京子(かがわ きょうこ)さんは、その後、素直で明るい娘役を数多く演じ、着実に女優のキャリアを積んでいきます。
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主にスター俳優の妹役で売り出される
1949年に「影を慕いて」の端役で映画デビューすると、早くも1950年には、「窓から飛び出せ」で、主演・大日向伝(おびなたでん)さんの隣家の娘役に抜擢され、自然体の演技が高い評価を得た香川さんは、
以降、
1950年「細雪」
「東京のヒロイン」(島耕二監督)
1951年「銀座化粧」
「高原の駅よさようなら」
「孔雀の園」(島耕二監督)
「東京のヒロイン」より。香川さん(左)と轟夕起子さん。
1952年「上海帰りのリル」
「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」
「おかあさん」
「モンテンルパの夜は更けて」
「おかあさん」より。香川さんと岡田英次さん。
と、主にスター俳優の妹役で売り出され、明るく素直な演技が好評を博します。
「新東宝」では島耕二監督ほか先輩俳優やスタッフに可愛がられていた
ちなみに、香川さんは、育成役だった島耕二監督に大事にされ、演技指導に真面目に従う姿勢などから、先輩俳優やスタッフにも可愛がられたそうですが、
当時の「新東宝」には、新興会社らしい自由な空気があったそうで、仕事を夢中で楽しむうちに、明るく素直な魅力がさらに引き出されていったのだそうです。
成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」にも出演
そんな香川さんは、1951年には、「銀座化粧」に出演しているのですが、新東宝の宣伝部にいた叔父さんの永島一朗さんが成瀬巳喜男監督と知り合いだった縁で、成瀬監督から声をかけられたそうで、
香川さんは、
こちらは駆け出しですから、怖かった(笑)。現場での目は厳しい方でしたけど、「ダメだ!」とか大きな声を出したりはなさいませんでした。
(成瀬監督は物静かな人で有名だったそうです)
私はまだ、自分の演技がこれでいいのか悪いのか、わからない頃なんです。でもまあ、監督さんがOKを出されたんだから大丈夫でしょう、と自分を納得させていました(笑)。
と、語っています。
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