新生「チューリップ」として、1973年4月に発売した3枚目のシングル「心の旅」が大ヒットし、一躍、脚光を浴びた、財津和夫(ざいつ かずお)さんは、その後も、次々とヒットを飛ばし、トップスターの地位を不動のものにします。
「財津和夫は「心の旅」ではコーラス担当だった!その理由とは?」からの続き
「夏色のおもいで」「銀の指環」でアイドル的な人気を確立
新生「チューリップ」の3枚目のシングル「心の旅」では、レコーディングの当日に、急遽、リードヴォーカルからコーラスに替えられ(姫野達也さんがリードヴォーカル)、ショックを受けたという財津さんですが、
財津さんの思いとは裏腹に、「心の旅」が大ヒットとなったことから、「チューリップ」は、
4枚目のシングル「夏色のおもいで」(1973年10月)
5枚目のシングル「銀の指環」(1974年1月)
でも、引き続き、姫野さんをヴォーカルに据え、ポップさを前面に打ち出した楽曲を立て続けに発売すると、テレビ番組にも数多く出演するようになるほか、ステージでも、女性ファンが殺到するなど、アイドル的な人気を博します。
「夏色のおもいで」では作詞も外され挫折感に打ちのめされていた
しかも、「夏色のおもいで」では、新田ディレクターが、外部の作詞家である松本隆さんに作詞を依頼したため、自分で詞を書くつもりでいた財津さんは、さらに挫折感に打ちのめされたそうで、
『心の旅』でボーカルを奪われ、『夏色のおもいで』で詞を奪われ、自分はいったいなんなんだろう
と、自問自答を繰り返したそうです。
(松本さんは、「はっぴいえんど」を解散して間もない頃で、この「夏色のおもいで」が作詞家としてのデビュー作となっています)
「青春の影」では財津和夫がリードヴォーカル
それでも、1974年6月には、これまでのアイドル路線から大きく路線修正し、財津さんがリードヴォーカルを担当して、男と女の青春の終焉を歌ったスローバラード「青春の影」(6枚目のシングル)をリリースすると、発売当時はそれほど売れなかったもののヒットを記録するのですが、
(ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」をお手本にしているそうです)
7枚目のシングル「ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜」(1974年10月)では、作詞・作曲した財津さんは、「好きな曲だから、本当は自分が歌いたかった」そうですが、これまでの経験から姫野さんが歌った方がヒットすると判断し、再び、リードボーカルを姫野さんに譲っています。
「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」のヒットでスターの座を不動のものに
そして、その後も、
8枚目のシングル「サボテンの花」(1975年2月)では、財津さんがリードボーカル、
9枚目のシングル「悲しきレイン・トレイン」(1975年7月)では姫野さんがリードボーカル、
10枚目のシングル「娘が嫁ぐ朝」(1976年4月)では、財津さんがリードボーカル、
と、リードボーカルは、財津さんになったり姫野さんになったりしているのですが、
11枚目のシングル「風のメロディ」(1976年9月)で、シングルとしては唯一の、財津さんと姫野さんによる共作曲(姫野さんが作ったAメロを財津さんが発展させ作曲したそうです)でツインボーカルとなると、この曲を最後に、
12枚目のシングル「ブルー・スカイ」(1977年6月)
13枚目のシングル「WELCOME TO MY HOUSE」(1977年11月)
14枚目のシングル「夕陽を追いかけて」(1978年6月)
15枚目のシングル「約束」(1978年10月)
16枚目のシングル「虹とスニーカーの頃」(1979年7月)
ほか、以降のシングルA面のリードボーカルは全て財津さんとなっています。
また、特に、8枚目のシングル「サボテンの花」と16枚目のシングル「虹とスニーカーの頃」がヒットし、「チューリップ」は、トップスターの地位を不動のものにしたのでした。
「財津和夫は昔「チューリップ」で盟友・吉田彰に脱退されていた!」に続く