20代の頃(当時は四代目尾上菊之助)から、六代目市川新之助(後の十二代目市川團十郎)さん、初代尾上辰之助さんと共に「三之助」と呼ばれ、歌舞伎俳優として人気を博した、七代目尾上菊五郎(しちだいめ おのえ きくごろう)さん。今回は、そんな菊五郎さんと妻・富司純子さんの馴れ初めについてご紹介します。

「尾上菊五郎(7代目)の出演舞台ドラマ映画を画像で!」からの続き

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妻・富司純子との馴れ初めは?

菊五郎さんは、1966年、NHK大河ドラマ「源義経」で、主人公の源義経役を務めているのですが、義経の妾・静御前役は富司純子さんだったそうで、

颯爽(さっそう)とした江戸前の芸風を持ち、美しい容姿から「歌舞伎界のプリンス」と呼ばれていた菊五郎さんと、映画界きっての美人女優だった純子さんの共演は、天下随一の美男美女カップルともてはやされたそうですが、プライベートでも、二人はそのまま交際に発展し、1972年、結婚に至ったのだそうです。


「源義経」より。菊五郎さんと藤純子さん(当時)。

ちなみに、義経の正妻・卿の君(萠子)役で二人と共演した波乃久里子さんは、

菊之助さんと私は従妹同士ですから子供のころから彼を“ひーちゃん、ひーちゃん”と呼んでいたんです。彼の本名が寺嶋秀幸ですから。

純子さんはそれを知らなくて、何で“ひーちゃん”と呼ぶのと聞くんです。そこには可愛い嫉妬が見え隠れしていて、とても微笑ましかったです

と、明かしています。

妻・富司純子との結婚は世間を驚かせていた

また、純子さんが出演した2本の映画、「旗本やくざ」と「男の勝負」の中島貞夫監督は、

僕が監督した『大奥(秘)物語』(1967年)のとき、ふたりの関係はうすうす気が付いていました。菊之助が京都南座に出演しているときなど、純子ちゃんはソワソワして嬉しそうでしたからね。

面白かったのは、当時、京都撮影所には鶴田(浩二)高倉(健)らが作った『藤純子を守る会』というのがあって、彼女に手出しすることは絶対に許されませんでした。

何しろ俊藤浩滋プロデューサーの愛娘で、鶴田、高倉が後見しているのはみんな知っていましたからね。だから婚約発表の時は、歌舞伎役者に我らが姫を奪われたとスタッフは地団太踏んで悔しがりました(笑)

と、語っています。

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妻・富司純子の父・俊藤浩滋は稼ぎ頭だった娘の結婚に反対していた

ただ、純子さんの父・俊藤浩滋さんは、映画プロデューサーだったことから、「ドル箱」(稼ぎ頭)だった娘の結婚に反対し、あと2年待て、3年待て、と結婚を引き伸ばし、純子さんを女優業に専念させたそうで、二人は、出会ってから結婚まで8年もの年月を要したのだそうです。

(菊五郎さんも、「音羽屋」の将来のため、父・七代目尾上梅幸さんから結婚を反対され、無理矢理、いろいろな人とお見合いさせられたそうです)

「尾上菊五郎(7代目)は妻・富司純子の芸能界復帰が不満だった?」に続く

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