小・中・高校時代、クラブ活動など一切せず、ただひたすら勉強に打ち込み、トップの成績を保っていたという、香川照之(かがわ てるゆき)さんは、勉強さえできればそのほかのことはどうでも良いと考える、母・浜木綿子さんへの復讐心から、東京大学を受験し、見事合格したそうですが、大学4年生の時に母・浜さんのつてでTBSのスタジオでADのアルバイトをすると、やがて、「親の七光り」を利用しない手はないと考えるようになり、消去法で俳優の道を選んだといいます。
母親への復讐心から東京大学を受験し見事現役合格を果たしていた
幼い頃から母・浜木綿子さんに勉強させられ、中学・高校時代、常にトップの成績だったという香川さんは、家族(特に母親)への復讐心から、東京大学を受験したいと思うようになり、高校を首席で卒業すると、東京大学を受験し、見事現役合格を果たしたそうですが、
中高時代の同級生は、そんな香川さんの凄さを、
香川は中1から高1まで『優秀クラス』にいました。優秀クラスは180人の学年の中でも上位40名の生徒だけが選ばれる。
その学年で東大に合格したのは9人でしたが、香川は学年トップ。卒業式ではいちばん優秀な生徒に贈られる賞をもらっていました。勉強ができたら運動が苦手、といったことがあると思いますが、彼は全部できましたね
と、語っています。
大学4年生の時に母・浜木綿子のつてでTBSのスタジオでADのアルバイトをしていた
そんな香川さんは、大学4年生の時、お母さんの紹介で、TBSの緑山スタジオで、2か月間、ADのアルバイトをしたことがあったそうで、コードを巻いたり、お弁当を配ったりしたそうですが、よく怒られていたそうです。
しかし、後から入ってきた、(後に映画監督になる)行定勲さんに、お弁当の配り方などを教えた際には、とても横柄だったそうで、
行定さんは、インタビューで、
たった3週間だけですよ、今考えれば。でも、もう相当先輩っぽい感じで。スゴイ嫌な人でしたね。
「うまいとこ、俺が教えるから。今から言うぞ」て、いくつか早口でバババって言うんですよ。「メモんなくていいの!俺、1回しか言わないからね!」って
と、語っています。
(行定さんは、映画「GO」(2001)や「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)などで監督を務めています)
「親の七光り」を利用しない手はないと考え、消去法で俳優の道を選んでいた
さておき、香川さんは、1988年に東京大学を卒業すると、特にやりたい仕事がなかったことから、TBSの緑山スタジオでのADの仕事を続けていたそうで、
やがて、「親の七光り」を利用しない手はないと考えるようになり、消去法で俳優の道を選んだといいます。
映画「静かなるドン」出演をきっかけに真剣に演技に向き合うようになっていた
そして、同年、テレビドラマ「空き部屋」で俳優デビューすると、翌年の1989年には、NHK大河ドラマ「春日局」、1991年には、映画「静かなるドン」で主人公を演じ、一躍注目を集めているのですが、
「春日局」より。
当初は、両親が三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)さんと浜木綿子さんだということと、東京大学出身ということばかりが注目されていたそうです。
そのため、20代の頃は、横柄な態度を取り、批判されることもあったそうですが、なんとなく俳優を続けていたそうです。
しかし、「静かなるドン」撮影時に、鹿島勤監督から、最低30回、多い時で70回、最高で108テイクのやり直しを命じられたそうで、以降、真剣に演技に向き合うようになったのだそうです。
「香川照之は映画「ジョン・ラーベ」で昭和天皇の叔父を演じ批判されていた!」に続く
「静かなるドン」より。