1993年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)権を行使した、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、1993年12月9日、噂されていた通り、巨人に移籍するのですが、実は、巨人の長嶋茂雄監督が、落合さんを熱望し、周りの反対を押し切って獲得に動いたといいます。
「落合博満は日本人選手で初めてFA宣言していた!」からの続き
FAで巨人に移籍
1993年11月24日、中日は落合さんと残留交渉をし、条件も提示したそうですが、落合さんは、「他の球団の話も聞きたい」と態度を保留。
そんな落合さんは、12月9日(落合さんの40歳の誕生日)、巨人と交渉を行うと、同年12月21日には、入団発表が行われ、真新しい巨人のユニフォームに袖を通した落合さんは、隣の長嶋茂雄監督から巨人の帽子を被せられ、握手を交わしています。
長嶋茂雄監督(左)と落合さん(右)。
(根本陸夫監督率いるダイエーも落合さん獲得に興味を持ったそうですが、根本監督が、長嶋茂雄が動くならと獲得を断念したそうです)
プロ野球人気を回復させるため長嶋茂雄が巨人の監督に就任するも巨人はリーグ最少得点という貧打線で3位に終わっていた
実は、この年(1993年)は、春に始まったサッカーのJリーグが社会的ブームとなるほか、大相撲も若貴兄弟による空前の盛り上がりで、昭和から続く国民的娯楽だったプロ野球は人気に陰りが見え始めており、そんな中、プロ野球人気回復の切り札として、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄さんが巨人の監督に復帰していたのですが、
長嶋巨人の1993年シーズンは、14シーズンぶりに勝率5割を切り、首位ヤクルトと16ゲーム差の3位がやっとで、リーグ最少得点に12球団最低のチーム打率2割3分8厘という貧打線でした。
長嶋茂雄監督が落合獲得を熱望
というのも、長年、巨人の象徴として活躍した4番・原辰徳選手が、すでに35歳で、古傷のアキレス腱痛が再発するなど、様々な故障に悩まされて打撃不振に陥っていたことが原因だったのですが(1993年はプロ入り以来ワーストの98試合の出場に終わっています)、
そんな中、前年には不調の原選手に代わって4番打者として活躍した駒田徳広選手が、中畑清打撃コーチと打撃理論が合わずに衝突して、1993年オフ、FA権を行使して自らチームを飛び出し、
セ・リーグの高卒新人新記録の11本塁打を放ったゴールデンルーキー・松井秀喜選手は、一本立ちするにはまだ時間がかかる状態だったことから、
長嶋監督が、チームの核となり、さらには松井選手のお手本になれるような本物の4番打者を熱望し、
四番というのはチームの顔なんです。バッティングだけでなく精神的な支柱でもあるんですね。バットマンとしての夢であり、三番や五番とは違うんです。
不動の四番が欲しい。四番というのは特別で、シンボル的なもの。誰からも文句が出ないような存在なんです。どうでしょう、いまのウチにいますか?(四番に)なりきれないのと、ええ、まだ、少々時間がかかるというのか・・・(週刊ベースボール1993年11月15日号)
いまの巨人は優等生の体質。これに同じ“抗体”を入れても仕方ありません。悪玉を入れなければ(週刊読売1993年11月7日号)
などと語り、落合さんにラブコールを送ったのでした。
巨人へ移籍した理由とは?(落合博満本人のコメント)
ちなみに、落合さんは、当初は中日へ残留を希望するも、一転、FA宣言し、巨人へ移籍した理由について、後に、「日本プロ野球トレード大鑑」で、
これは、もうほとんど女房の意志(笑)。日本で初めて1億円プレーヤーになり、2億、3億もトップを切ってきた。年俸調停もやった。そうやって選手のステイタスを向上させてきた私が、なぜFAの時だけ尻込みするのかってね。
そうしたら、長嶋さんが周囲の反対を押し切ってまで私の獲得に動いてくれた。憧れの長嶋さんに誘われたら、やるしかないだろう・・・みたいな気持ちはあったね
と、明かしています。
40歳の落合を獲得した巨人は猛批判されていた
ただ、1993年12月で40歳になった落合さんを年俸4億円で獲得した巨人に対し、特に球界OBたちからは、猛批判が巻き起こり、落合さんは、味方であるはずの巨人関係者からも歓迎されず、みな冷ややかだったといいます。
それでも、逆に、これが落合さんの反骨精神に火をつけたといいます。
「落合博満は巨人移籍直後キャンプの甘さに驚いていた!」に続く