1979年は、前年オフにトレードされた田淵幸一選手に代わり、4番に座ると、打率3割2分7厘、48本塁打(本塁打王)、95打点という素晴らしい成績を残した、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんですが、1980年は、半月板損傷の大ケガを負い、不本意な成績で終わると、オフには、大阪のスポーツ紙に「トレードで放出」と報じられ、もし、実際にトレードとなったら引退しようと決めていたといいます。

「掛布雅之は入団6年目48本塁打(3割2分7厘)で本塁打王に輝いていた!」からの続き

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1980年は4月に半月板損傷の重傷を負っていた

1980年4月18日、開幕8試合目の巨人1回戦(後楽園球場)、6回、一塁走者だった掛布さんは、続くラインバック選手の中前安打で二塁に疾走し、三塁に向かおうとしていたそうですが、

二塁ベースを回ったところでコーチから「ストップ!」がかかり、あわててブレーキをかけ、二塁に戻ろうとすると、左膝に激痛が走ったそうで、その後の検査で半月板損傷の重傷だったことが判明します。

1980年はシーズン途中で戦列に復帰するも不本意な成績に終わっていた

そんな掛布さんは、2週間絶対安静のうえ、1ヶ月以上のリハビリを経て、なんとかシーズン中に戦列に戻ったそうですが、入団以来最少の70試合の出場に終わったうえ、4年連続で3割を超えていた打率も2割2分9厘、本塁打も11本と不本意な成績に終わってしまいます。

(打てなくなった掛布さんは、一部のファンから自宅に嫌がらせの電話が鳴り止まず、家のガレージの車は傷つけられと、数えきれないほどの嫌がらせを受けたそうですが、前年(1979年)に結婚したばかりの奥さんと大阪・梅田を一緒に歩いていた時、突然、奥さんの手が引っ張られ、「掛布がダメになったのは、お前と結婚したせいや」と言われたことは、許し難かったそうです)

大阪のスポーツ紙に「トレードで放出」と報じられていた

すると、この年のオフには(1980年12月13日)、大阪の某スポーツ紙に、「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」「掛布、門田トレード!」などと報じられたそうで、急遽、阪神・南海両球団は否定会見を行ったそうですが、

このスポーツ紙には、南海OBの大御所である鶴岡一人氏が評論家として所属しており、ニュースの信憑性は決して低くはなかったそうです。


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トレード話の悔しさをバネに練習に打ち込み「4代目ミスタータイガース」と称される活躍をしていた

そんな報道に、掛布さんは衝撃を受けると同時に悔しく思ったそうですが、その悔しさをバネに、さらに練習に打ち込み、摂生に努めたそうで、

翌年1981年からは4年連続で全130試合に出場すると、1981年には、自己最高の打率3割4分1厘(リーグ4位)、1982年には、35本塁打、95打点で本塁打王と打点王の2冠王、1984年は、37本塁打で3度目の本塁打王と、素晴らしい成績を残し、田淵幸一さんに続く「4代目ミスタータイガース」と称されるまでになったのでした。

トレードなら引退と決めていた

ちなみに、そんな掛布さんの輝かしい活躍で、トレード話も立ち消えになったそうですが、

掛布さんは、後に、

実はね、あの時、もし球団から移籍の話があったら、引退しようと決意していたんだ

田淵さんから言われたあの言葉。約束を果たせないからね。それに、たった1回の怪我でボクを放出する球団の思い通りにはさせるか!という気持ちもあった

選手にはトレードを断る権利はない。ボクたちに出来るのは野球を辞めることしかないから

と、「トレードなら引退」と決めていたことを明かしています。

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清原和博が阪神に入団したら一塁へコンバートされる予定だった

ただ、1984年には、不動の三塁手だった掛布さんに、一塁へのコンバートの話があったといいます。

安藤統男監督に、

清原(和博)を取りたい。そうなれば、一塁へ回ってもいいやろう?

(守備の負担が少ない)一塁なら、お前の野球人生も長くなるやろう

と、言われたそうで、

掛布さんは、この話を受け入れ、ファーストミットを用意したそうですが、結局、監督が吉田義男さんに交代し、この話は立ち消えとなったそうです。

(阪神球団には、1985年のドラフト会議で、大阪・PL学園の清原和博選手を指名し、三塁手として育成する考えがあったのだそうです)

「掛布雅之はバース・岡田と共にバックスクリーン3連発を放っていた!」に続く

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