1993年8月、プロサッカー選手の三浦知良さんと結婚した、三浦りさ子(みうら りさこ)さんは、夫・三浦知良さんとの間に男の子が2人誕生しており、長男は俳優の三浦獠太さん、次男は格闘家の三浦孝太さんです。
今回は、そんな三浦りさ子さんの息子さんについてご紹介します。
「三浦りさ子の夫・三浦知良との馴れ初めは?路チュー不倫?現在の夫婦仲は?」からの続き
三浦りさ子の息子(長男)は俳優の三浦獠太
三浦りさ子さんは、夫・三浦知良さんとの間に、男の子が2人誕生しているのですが、長男は、俳優の三浦獠太(みうら りょうた)さんです。
三浦獠太さんは、1997年9月5日誕生すると、少年時代はサッカーに打ち込み、クラブチームにも所属して活躍していたそうですが、高校3年生の時、限界を感じたのか、サッカーを辞め、大学生の時には、自分が本当にやりたいことや合っていることは何なのか模索していたそうです。
そして、大学を卒業する前に、芸能活動を考えるようになり、2019年春、本格的に俳優を目指したいと周囲に相談すると、最高の布陣の作品で勉強したほうがいいと周囲からの勧めがあり、同年、木村拓哉さん主演のテレビドラマ「グランメゾン東京」の「コックA」役で俳優デビューしています。
(ただ、この時はまだ、事務所に所属していなかったため、研究生のような立場だったそうです)
その後、2020年には、事務所「トップコート」に所属すると、テレビドラマを中心に、映画、舞台と数多くの作品に出演し、2024年には、連続テレビ小説「ブギウギ」でヒロインの新人マネージャー役に抜擢されています。
三浦りさ子さんと三浦獠太さん。
三浦りさ子の長男・三浦獠太は「家庭の中ですごかったのは父親ではなく母親」だと語っていた
そんな三浦獠太さんは、お父さんが三浦知良さんと、有名なサッカー選手なので、お父さんの教育論をよく聞かれるそうですが、
実は、家庭の中では、お父さんではなく、お母さんの三浦りさ子さんがすごかったそうで、
三浦獠太さんは、取材の中で、
(父親と自分たちはみんな自分勝手だが)なんかそれが奇跡的にマッチしただけであって、この家族は。だから、それをまとめた母親は僕はすごいと思いますね。
やっぱり。みんなお父さんの話を聞きますけど、この家庭で一番偉いのは、母親だということを忘れてはいけない(笑)
インタビュアー:息子さんにそう言われると、お母さんも喜ばれますよね。
三浦獠太さん:そのはずなんですけどね。そういうのもあんまり喜ばないタイプですね。ちょっと変わってます(笑)。でも、父親はサッカーでいなかったし。ほとんど1人で僕と弟を育ててくれました。
今、大人になって、この家族がまとまってるのは母親のおかげだということを忘れないようにしたい。これからは僕らが頑張って幸せにしていけたらいいなと
と、語っており、
お母さんがすごかったということを、ずっと伝えていきたいと思っているそうです。
三浦りさ子の息子(次男)は格闘家の三浦孝太
三浦りさ子さんの次男は、格闘家の三浦孝太(みうら こうた)さんです。
三浦孝太さんは、2002年5月28日に誕生すると、お兄さん同様、幼少期にサッカーを始めるのですが、中学生時代には、ボクシングに打ち込むと、やがて総合格闘技に興味を持つようになったそうで、
高校時代には、サッカーを辞め、格闘家になる決意をすると、高校卒業後はプロの格闘家を目指すため、大学進学はせず、宮田和幸さんが主催する総合格闘技ジム「BRAVE」に入門したそうです。
そして、ハードなトレーニングを重ねると、2021年、大晦日、「RIZIN(ライジン)」で格闘家デビューを果たし、見事勝利を収めています。
三浦りさ子さんと次男・三浦孝太さん。
三浦りさ子の次男・三浦孝太は幼少期はカッとなりやすい性格だった
そんな三浦孝太さんは、幼い頃はカッとなりやすいところがあり、サッカーの試合中にも、相手の選手や審判に感情をぶつけてしまい、お母さんが学校に呼び出されて怒られる、ということがあったそうで、(不良というのではなかったそうですが)お母さんやお父さんに迷惑をかけてきたといいます。
ただ、そんな性格が自分で嫌になり、「もっと器の大きい人になりたい」と思い始めたそうですが、(どのような職業でも「強い人」はみな、器の大きなイメージがあったそうで)格闘技を始めたことで、優しくなれ、少しずつ変わることができたのだそうです。
(三浦孝太さんは、大晦日の試合で勝利した後、リング上から、試合を観戦していたお母さんとお父さんに感謝を伝えています)
三浦りさ子は次男・三浦孝太が格闘家になることを反対するも、最終的には許していた
ちなみに、三浦りさ子さんは、三浦孝太さんに、大学に進学せず、格闘家1本でやっていきたいと伝えられた際には、ケガを心配し、
大学に行くのが一番安全
と、反対したそうですが、
格闘技に専念したいと説得されるうち、徐々に気持ちが変わり、最終的には、
孝太は、大学に行っても途中で辞めちゃいそう。お金がもったいないだけになっちゃうんじゃない?
と、三浦孝太さんの決断を理解したのだそうです。
1986年、大学1年生の18歳の時、「設楽りさ子(したら りさこ)」名義で、JALの沖縄キャンペーンガールで芸能界デビューすると、その後、ファッション雑誌「JJ」の専属モデルとして活動し、現在も、雑誌「VERY」「美ST …