若い頃は、日本的な様式感覚と独特の美意識に裏打ちされた演出で、“松竹ヌーベルバーグの旗手”として注目を集めると、その後は、エンターテイメント性に富む作品も数多く手掛けた、篠田正浩(しのだ まさひろ)さん。
今回は、そんな篠田正浩さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「篠田正浩の生い立ちが凄い!小学生で黒澤明に衝撃を受け中高時代はヨーロッパ映画を観ていた!」からの続き
篠田正浩の20代の頃
28歳の時に「恋の片道切符」で映画監督デビューするも助監督に戻されていた
1959年、28歳の時、「怒りの祭壇」という自作のシナリオを書き上げた篠田正浩さんは、1960年には、この自作シナリオ「怒りの祭壇」が改題された「恋の片道切符」で映画監督デビューを果たします。
しかし、この「恋の片道切符」は、新しく「松竹」の社長に就任した大谷竹次郎氏には不評で、篠田正浩さんに映画は撮らせられないとして、篠田正浩さんは助監督に戻されてしまったそうです。
ただ、やがて、大島渚さんや吉田喜重さんら1年後輩の映画監督が成功を収めるほか、「松竹」が新人監督の起用を推し進める方針となったこともあり、篠田正浩さんも監督契約となったそうです。
29歳の時に監督映画「乾いた湖」が大ヒットを記録
すると、篠田正浩さんは、1960年、29歳の時には、映画「乾いた湖」を発表すると、映画は大ヒットを記録。
この大ヒットにより、篠田正浩さんも、一躍、脚光を浴びると、“松竹ヌーベルヴァーグの騎手”と呼ばれるようになったのでした。
実は、この「乾いた湖」の脚本は、当時はまだ無名の新人だった寺山修司さんが執筆しているのですが、
篠田正浩さんが寺山修司さんの短歌集「われに五月を」に収録されている「祖国喪失」という詩の、「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」の「祖国」という表現に衝撃を受けて、寺山修司さんに脚本を依頼したのだそうです。
1953年、早稲田大学を卒業後、超難関の「松竹」に助監督として入社するも、陸上部出身ということで、当初は、日数も予算も少ないハードなロケ映画の助監督など、体力の必要な力仕事ばかり命じられていたという、篠田正浩(しのだ ま …
篠田正浩の30代の頃
30歳~34歳の時に「夕陽に赤い俺の顔」「三味線とオートバイ 」「わが恋の旅路」など立て続けに作品を発表し、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と讃えられていた
そんな篠田正浩さんは、2作目も寺山修司さんとタッグを組み、1961年、30歳の時には、映画「夕陽に赤い俺の顔」を発表すると、
以降、
- 1961年(30歳)「三味線とオートバイ 」
- 1961年(30歳)「わが恋の旅路」※脚本:寺山修司
- 1962年(31歳)「涙を、獅子のたて髪に」※ 脚本:寺山修司
- 1962年(31歳)「山の讃歌 燃ゆる若者たち」
- 1962年(31歳)「私たちの結婚」
- 1964年(33歳)「乾いた花」
- 1964年(33歳)「暗殺」
- 1965年(34歳)「美しさと哀しみと」
と、次々と作品を発表し、
日本的な様式感覚と独特の美意識に裏打ちされた演出スタイルが、大島渚さん、吉田喜重さんと共に、“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と讃えられています。
34歳の時に松竹から自宅待機(解雇)を通告されていた
ただ、その後、一般家庭にカラーテレビが普及し、日本映画産業自体が射陽化すると、篠田正浩さんは、「松竹」の期待を背負い、1965年、34歳の時には、「異聞猿飛佐助」を発表するのですが、興行はパッとせず、
「松竹」から自宅待機を通告されてしまい(つまり解雇)、同年には「松竹」を退社しています。
36歳の時に妻・岩下志麻をヒロインに起用した「あかね雲」を発表
そんな篠田正浩さんは、翌年の1966年には、女優の岩下志麻さんと結婚すると、同年5月には、岩下志麻さんとともに独立プロダクション「表現社」を設立。
1967年、36歳の時には、岩下志麻さんをヒロインに起用した「あかね雲」を発表します。
38歳の時に妻・岩下志麻をヒロインに起用した「心中天網島」が大ヒットを記録
そして、1969年、38歳の時には、再び、妻・岩下志麻さんをヒロインに起用し、「心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)」を発表すると、映画館から客離れが進む厳しい状況の中、大ヒットを記録。
このヒットにより、篠田正浩さんは名監督の地位を不動のものにしたのでした。
映画「乾いた湖」を発表すると大ヒットを記録し、”松竹ヌーベルバーグの騎手”と呼ばれるようになった、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、その後も次々と作品を発表するのですが、やがて、日本映画産業自体 …
篠田正浩の40代~60代の頃
その後も、篠田正浩さんは、
- 1971年(40歳)「沈黙 SILENCE」
- 1977年(46歳)「はなれ瞽女おりん」
- 1984年(53歳)「瀬戸内少年野球団」
- 1986年(55歳)「鑓の権三」
- 1989年(58歳)「舞姫」
- 1990年(59歳)「少年時代」
- 1995年(64歳)「写楽 Sharaku」
- 1997年(66歳)「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」
など、次々と名作を発表しているのですが、
「少年時代」「写楽 Sharaku」「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」では、過去の風景を再現するのにCG合成を積極的に取り入れるなど、エンターテイメント性に富む作品も手掛けています。
篠田正浩の70代の頃
72歳の時に「スパイ・ゾルゲ」で引退していた
ただ、そんな篠田正浩さんも、映画界入りしてちょうど50年となる2003年、72歳の時には、自らの映画人生の集大成となる作品「スパイ・ゾルゲ」を発表し引退しています。
日本映画産業全体が斜陽化してきた1965年、「松竹」を退社してフリーになり、翌年1966年、独立プロダクション「表現社」を設立すると、1969年には映画「心中天網島」を大ヒットさせた、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、 …
篠田正浩の80代~90歳の頃(現在)
そして、2020年、89歳の時には、篠田正浩さんがかつて在籍していた「松竹」が、映画製作開始100周年記念プロジェクトの締めくくりとして、篠田正浩さんの作品「夜叉ヶ池」(1979年)を4Kデジタルリマスター版として、42年ぶりに復活させると、
2003年には、映画監督人生の集大成として映画「スパイ・ゾルゲ」を発表し、これを最後に映画監督を引退していた、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんですが、2020年には、「夜叉ヶ池」(1979)が42年ぶりに4Kデジタルリマ …
2021年、7月、90歳の時には、この4Kデジタルリマスター版の「夜叉ヶ池」が、「カンヌ国際映画祭クラシック部門(カンヌ・クラシックス)」で上演されています。
1979年に公開された後は、2020年に42年ぶりに4Kデジタルリマスター版で復活するまで、一度だけテレビ朝日系「ゴールデンワイド劇場」で放送されただけで、ビデオやDVDにもされず、幻の作品と言われてきた、篠田正浩(しの …
ちなみに、カンヌで上演には立ち会えなかった篠田正浩さんは、この報せを聞き、この作品が世界の映画史の中で古典(クラシック)になったことを実感しつつ、「夜叉ヶ池」が時代を超えて新しい観客と出会えることが、自身の90年の人生の中でも大変嬉しい旨、語っています。
2020年に42年ぶりに4Kデジタルリマスター版で復活した「夜叉ヶ池」ですが、実は、1979年に公開された「夜叉ヶ池」は、当時、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんが、松竹への罪滅ぼしで制作したものだったといいます。 「篠田 …
また、現在、篠田正浩は、2019年5月に体調を崩して以来、自宅療養しており、妻の岩下志麻さんが献身的にサポートしていることが週刊誌に報じられています。
2017年11月には、トークショーに出演し、久しぶりに公の場に姿を表した、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんですが、2019年5月、体調を崩し自宅療養中であることが、週刊誌「女性自身」により報じられます。 「篠田正浩は岩下 …
篠田正浩のデビューからの監督作品
それでは、最後に、篠田正浩さんの、デビューからの監督作品をご紹介します。
1960年、「恋の片道切符」で映画監督デビューして以来、「心中天網島」「夜叉ヶ池」「悪霊島」「瀬戸内少年野球団 」「写楽」「梟の城 owl’s castle」「スパイ・ゾルゲ」ほか数多くの名作映画を世に送り続 …
1960年、「恋の片道切符」で映画監督としてデビューすると、以降、「乾いた湖」「三味線とオートバイ」「わが恋の旅路」「夕陽に赤い俺の顔」「涙を、獅子のたて髪に」「乾いた花」など、次々と作品を発表し、”松竹ヌーベルヴァーグ …