1953年、立命館大学を中退して、大阪(阪神)タイガースに入団すると、その後、遊撃手の守備で、小柄ながら俊敏で華麗な動きが牛若丸と称され、ベストナイン9回(遊撃手の最多記録)を誇った、吉田義男(よしだ よしお)さん。

そんな吉田義男さんは、12歳の時に、三角ベースに夢中になると、中学進学後は野球部に入部するも、ベンチ入りできない補欠部員で、ボール拾いに明け暮れる毎日だったそうですが、

ある日、後に中日ドラゴンズを優勝に導いた天地俊一さんが技術指導のために吉田義男さんの通う中学校を訪れた際、吉田義男さんの守備(ショート)の動きを絶賛していたと知り、ますます、野球に打ち込んだといいます。

今回は、そんな吉田義男さんの、生い立ち(幼少期から中学時代まで)をご紹介します。

吉田義男

Sponsored Link

吉田義男のプロフィール

吉田義男さんは、1933年7月26日生まれ、
京都府京都市中京区西ノ京中保町の出身、

身長165センチ、
体重56キロ、

血液型はO型、

学歴は、
朱雀第八小学校
⇒本梅国民学校(転入)
⇒旧制京都市立第二商業学校(1948年、学制改革により京都市立西陣商業高等学校に改称されるも同年、廃校)
⇒京都府立山城高等学校(編入)
⇒立命館大学中退

趣味は、ゴルフ、

ちなみに、「吉田義男」は本名ですが、薪炭業を自宅で営んでいたお父さんに、正直者の奉公人・上田義雄さんの名前より、「雄」を「男」に変えて、名付けられたのだそうです。

また、愛称は「よっさん」「ムッシュ」です。

吉田義男は小学生時代からすばしっこく運動会で活躍していた

吉田義男さんは、薪炭業(しんたんぎょう)を自宅で営むお父さんの正三郎さんとお母さんのユキノさんのもと、5人兄弟姉妹(兄1人、姉2人、妹1人)の4番目として誕生すると、

幼い頃は胃腸が弱かったそうですが、朱雀第八小学校に入った頃から、元気ですばしっこい少年へと成長し、運動会などで活躍したそうです。

吉田義男が8歳の時に太平洋戦争が始まり終戦後は食糧難だった

ただ、吉田義男さんが8歳の時、太平洋戦争が始まると、お母さんの出身地である京都府南桑田郡本梅村(現・亀岡市本梅町西加舎)に縁故疎開したそうで、

京都は空襲に遭わずに済んだため、終戦後は、すぐに家族は一緒に住むことができたそうですが、食糧難でさつまいものつるや栗を食べる毎日だったそうです。

吉田義男は12歳の時に野球に夢中になっていた

そんな中、終戦翌年の1946年、12歳の時には、アメリカ軍が奨励したことで、野球が大流行すると、吉田義男さんも、すぐに三角ベースに夢中になり、中学進学後は野球部に入部したそうです。

とはいえ、毎日、ボール拾いばかりさせられていたそうですが、吉田義男さんは、それを苦に思ったことは一度もなかったそうです。

(※三角ベースとは、二塁がなく、本塁・一塁・三塁の三角形の簡易な野球)

Sponsored Link

吉田義男は中学1年生の時は野球部で補欠も天地俊一に守備を絶賛されていた

また、吉田義男さんの通う旧制京都市立第二商業学校(京二商)は、「全国中等学校優勝野球大会」(現在の高校野球選手権大会(春夏の甲子園))に出場し、決勝まで進むほどの強豪校だったそうで、チームが甲子園出場を果たした際には、大阪の「堂島ホテル」に宿泊していたそうですが、

当時は、どこも、お米持参でないと泊めてもらえなったそうで、野球部では、まだベンチ入りできず補欠だった吉田義男さんが、お米を調達し、宿舎まで運ぶ仕事を任されたそうです。

そんな吉田義男さんですが、ある日、後に中日ドラゴンズを日本一に導く天知俊一さんが、吉田義男さんの通う京二商に技術指導のために訪れた際、

吉田義男さんのことを、

ショートの補欠の小さい坊や(吉田義男さん)は、動きが素晴らしいな。みっちり鍛えれば、いい選手になる。将来は、球界をリードする遊撃手になるかもしれないぞ

と、言っていたと、先輩から聞いたそうで、

吉田義男さんは、ますます野球に打ち込んだのだそうです。

(野球の強豪校である、旧制京都市立第二商業学校(京二商)は、天知俊一さんのように、著名な指導者を招いて技術指導を受けていたそうです)

「【画像】吉田義男の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link