“天才少女歌手”から”歌謡界の女王”へと登りつめるも、晩年は、身内や親しい人の度重なる不幸などにより、心身のバランスを崩して、自身も病に苦しみ、1988年の東京ドーム「不死鳥公演」では、全身激痛に襲われる中、全39曲を熱唱し、ステージから客席後方まで伸びた約100メートルある花道を、観客にゆっくり手を振りながら一人で歩き、コンサートを全うしたという、美空ひばり(みそら ひばり)さん。
そんな美空ひばりさんは、49歳の時、両側特発性大腿骨頭壊死症、肝硬変、脾臓肥大が判明すると、その後、足腰の激痛に見舞われ、立っているのも辛い状況の中、公演を続けていたそうですが、1989年6月24日には、間質性肺炎による呼吸不全のため、52歳で他界されています。
今回は、美空ひばりさんの、肝硬変、両側特発性大腿骨頭壊死症と判明されるまでの経緯、闘病生活、死因についてご紹介します。
美空ひばりは両側特発性大腿骨頭壊死症、肝硬変、脾臓肥大と診断されていた
美空ひばりさんは、1985年5月、自身の誕生記念ゴルフコンペでプレー中、腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったそうで、その頃から、原因不明の腰痛を訴えるようになったそうです。
そんな中、痛みをこらえながらステージに立ち、辛さなど微塵(みじん)も感じさせない熱唱を披露していたのですが、1987年、全国ツアーでの四国公演中には、耐えられないほどの激痛に襲われたといいます。
それでも、同年4月7日には、激痛で歩行もままならない状況の中、テレビ番組「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨むなど、仕事をこなしていたそうですが、
同年4月22日、ついに、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院で検査を受けたところ、両側特発性大腿骨頭壊死症、肝硬変、脾臓肥大と診断され、緊急入院し、約3ヶ月半に渡り、療養に専念したそうです。
(美空ひばりさんの病状は深刻でしたが、マスコミには一切本当の病名は公表されず、「慢性肝炎」と軽めにされて公表されたそうです)
そして、同年8月3日、退院すると、退院後の約2ヶ月は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲「みだれ髪」のレコーディングで芸能活動への復帰を果たしているのですが、病気は完治していなかったといいます。
(肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされていたそうです)
福岡県済生会福岡総合病院を退院しファンに手を振る美空ひばりさんと息子の加藤和也さん。
美空ひばりは立っているのも辛い痛みの中「不死鳥コンサート」で全39曲を熱唱していた
そんな美空ひばりさんは、1988年初め(51歳)には、ハワイで静養し、2月中旬に帰国すると、1988年4月開催予定の東京ドーム復帰公演(復活を宣言する特別なコンサート)に向けて本格的な下準備を進め、もう中止はできないというところまで来ていたそうですが・・・
足腰の痛みはほとんど回復しないまま、公演本番を迎えたそうです。
そして、立っているのも辛い状態の中、東京ドーム復帰公演「不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって」を開催すると、脚の激痛に耐えながら全39曲を熱唱。
39曲目の「人生の一路」を歌い終えると、ステージから客席後方まで伸びた、約100メートルある花道を、ゆっくりと観客に手を振りながら一人で歩いたそうですが、
元気で歩いている姿を見せなければ
という一念で、リハーサルの時には5分かけて歩いた100メートルの花道を、本番では2分で歩いたのだそうです。
美空ひばりの死因は間質性肺炎による呼吸不全
そんな美空ひばりさんは、すでに歌えるだけの肺活量はなかったにもかかわらず、その後も公演を続けていたそうですが、
(楽屋にはベッドと医師が、出口には救急車がそれぞれ待機し、ステージには座って歌うための椅子が用意され、往復の移動はヘリコプターという状況だったそうです)
1989年に入ると、ついに、入退院を繰り返すようになり、同年6月13日、呼吸困難を起こして重体に陥ると、6月24日、間質性肺炎による呼吸不全により、52歳の若さで他界されたのでした。
4歳の頃から、既に、童謡ではなく流行歌に強い興味を示し、その歌声で多くの人を魅了していた、美空ひばり(みそら ひばり)さん。子どもの頃から歌手としての素質を見せながらも、当時の社会通念からか、なかなか受け入れられませんで …