1969年、細野晴臣さんに誘われて「バレンタイン・ブルー」(後の「はっぴいえんど」)に加入すると、その後、「花いちもんめ」「氷雨月のスケッチ」「明日あたりはきっと春」「さよなら通り3番地」などの名曲を作曲した、鈴木茂(すずき しげる)さん。
今回は、そんな鈴木茂さんの、デビューから「はっぴいえんど」時代までの代表曲や経歴を時系列でまとめてみました。
「鈴木茂の生い立ちは?中学からギターを始め高校の時に細野晴臣らと知り合っていた!」からの続き
鈴木茂は18歳の時に細野晴臣に誘われて「バレンタイン・ブルー」(後の「はっぴいえんど」)に加入
鈴木茂さんは、1969年、18歳の時、細野晴臣さんに誘われ、「バレンタイン・ブルー」に加入すると、
同年10月28日には、デビュー・ライブ「ロックはバリケードをめざす」に出演しています。
鈴木茂は18歳~19歳の時に「はっぴいえんど」としてアルバム「はっぴいえんど」「風街ろまん」をリリース
そして、1970年3月には、「バレンタイン・ブルー」は「はっぴいえんど」と改名し、
- 1970年8月5日(18歳)「はっぴいえんど」
- 1971年11月20日(19歳)「風街ろまん」
と、2枚のアルバムをリリースします。
鈴木茂は19歳の時に「はっぴいえんど」で「花いちもんめ」を作曲しヴォーカルも担当していた
ちなみに、鈴木茂さんは、「風街ろまん」の収録曲「花いちもんめ」で、作曲とヴォーカルを担当しているのですが(作詞は松本隆さん)、
メンバーの中で最年少だった鈴木茂さんは、細野晴臣さんや大瀧詠一さんに、
おまえも曲作れよ
作ったからには歌え
などと言われて、作曲し、歌ったそうで、
この「花いちもんめ」は、乾いたエレキギターと耳に残る優しいヴォーカルが、鈴木茂さんの才能を感じさせる1曲となっています。
鈴木茂が21歳の時には「はっぴいえんど」の解散を一方的に通告されていた
その後、「はっぴいえんど」は、1972年12月31日に解散しているのですが、
実は、「風街ろまん」制作後、細野晴臣さんと大瀧詠一さんの確執が原因で解散が決定し、鈴木茂さんと松本隆さんは、一方的に解散を知らされたそうで、
鈴木茂さんは、「はっぴいえんど」の解散について、
大滝さんがソロアルバム(72年作『大瀧詠一』)を作り始めた時、はっぴいえんどは解散することになって、やっぱり僕はショックだったね。
もう少しやりたかったというのが正直なところで、〈どうしようかな〉と思って。とにかく曲を作らなければいけないなと
と、語っています。
鈴木茂は21歳の時「はっぴいえんど」のラストアルバムで「氷雨月のスケッチ」「明日あたりはきっと春」「さよなら通り3番地」を作曲
ちなみに、「はっぴいえんど」は、1972年12月31日に解散したにもかかわらず、レコードプロデューサーの希望で、解散後の1973年2月25日にラストアルバム「HAPPY END」がアメリカで制作されたそうで、
鈴木茂さんは、全9曲のうち、「氷雨月のスケッチ」「明日あたりはきっと春」「さよなら通り3番地」を作曲しているのですが、
他メンバー(細野晴臣さん、大瀧詠一さん、松本隆さん)がすっかりやる気を失っていた中、この3曲は、細野晴臣さんの作品を凌駕し、大瀧詠一さんの作品をカバーするかのように、鈴木茂さんのカラーが色濃く出たアルバムとなっています。
「【画像】鈴木茂の若い頃(ティン・パン・アレー)から現在までのアルバムや代表曲を時系列まとめ!」に続く
「はっぴいえんど」解散後は、ロックバンド「キャラメル・ママ(後にティン・パン・アレーと改称)」を結成すると、主にスタジオミュージシャンとして活動するかたわらソロ活動も開始し、1975年にリリースしたデビューアルバム「バン …