いすゞ自動車時代、太平洋戦争への召集・復員を経て、1949年、中日ドラゴンズに入団すると、快速球とフォークボールを武器に、2年目の1950年から6年連続20勝以上をマークし、

1954年には、最多勝32勝でリーグ優勝&日本一に大きく貢献して、”フォークの神様”と称された、杉下茂(すぎした しげる)さん。

そんな杉下茂さんは、幼い頃に肺を患って体が弱かったそうですが、小学校低学年の頃にお兄さんとキャッチボールを始めたことがきっかけで、野球が好きになり、お兄さんや友達と草野球やキャッチボールをして遊ぶようになると、

中学1年生の時には、大人の事情で、4番打者かつ投手として、その年の3月まで在籍していた小学校の軟式野球大会に出場し、チームを優勝に導いたそうですが・・・

今回は、杉下茂さんの、幼少期(生い立ち)から高校時代までをご紹介します。


杉下茂

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杉下茂は幼少期は病弱も小学生の時は野球が好きな少年だった

杉下茂さんは、幼い頃、肺を患い、体が弱かったそうですが、小学校低学年の時、3歳年上の兄・安佑(やすすけ)さんとキャッチボールを始めると、とにかく野球が好きになったそうで、

よく友達を誘っては、草野球やキャッチボールをするなど、のんびりと野球を楽しんでいたそうです。

杉下茂は中学1年生の時に大人の事情で高等小学校の軟式野球大会に4番打者かつ投手として出場し優勝に導いていた

そんな杉下茂さんは、1939年4月、旧制帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)に進学し、野球部に入部したそうですが、

その年の3月まで在籍していた一ツ橋高等小学校から高等小学校の軟式野球大会に出場してほしいとの依頼を受けると、4番打者かつ投手として出場し、見事、チームを優勝に導いたそうです。

杉下茂は中学1年生の時に甲子園出場が決定するも高等小学校の軟式野球大会に出場したことにクレームがついていた

その後、杉下茂さんは、帝京商業学校に復学し、「第25回全国中等学校優勝野球大会」の予選である東京大会に出場すると(試合には参加せずベンチのみ)、決勝戦では、日大三中を破り初の甲子園出場が決定したそうですが・・・

「第25回全国中等学校優勝野球大会」に東京の代表校として出発する直前、決勝戦での対戦相手だった日大三中から、

高等小学校の大会で投げていた杉下茂投手が帝京商のベンチにいるのはおかしい

と、思わぬクレームがついたといいます。

杉下茂は中学1年生の時に仲間の冷たい視線に耐えられず不登校になっていた

しかも、杉下茂さんの不正入学の疑惑までかけられたことから、帝京商業学校側は反論したそうですが、

最終的には、「第25回全国中等学校優勝野球大会」への出場辞退を申し出たそうで、

選手たちにとっては、せっかくつかんだはずの甲子園が目の前で消えたショックは大きく、杉下茂さんは、仲間たちから疎まれ、冷たい視線を向けられたそうで、

学校へ行くのも野球をするのも嫌になり、不登校になってしまったといいます。

杉下茂は中学3年生の夏に再び甲子園出場が決定するも太平洋戦争の戦局悪化で甲子園大会が中止になっていた

それでも、しばらくして、野球部に復帰した杉下茂さんは、中学3年生の夏、再び、東京大会(予選)を勝ち抜き、甲子園出場が決定したそうですが、

今度は、太平洋戦争の戦局の悪化で甲子園大会が中止になったといいます。

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杉下茂は高校1年生の時に東京大会(予選)に出場するも準決勝で逆転負けを喫していた

そして、1942年、旧制中学4年生(高校1年生)の時には、一塁手として東京大会(予選)に出場したそうですが、

準決勝・京王商(現・専修大学附属高等学校)戦で逆転サヨナラ負けを喫し、杉下茂さんの甲子園の夢は終わったのでした。

(1941年~1946年まで甲子園大会は中断されたのですが、1942年だけ夏の甲子園大会が復活したそうです)

「【画像】杉下茂の若い頃はフォークの神様!ルーキーから現役引退までの成績は?」に続く

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