1953年、テスト生として阪神タイガースに入団すると、速球と優れた制球力を武器に、通算成績320勝232敗、防御率2.45、3159奪三振という素晴らしい記録を残し、”精密機械(針の穴を通すコントロール)”と称賛された、小山正明(こやま まさあき)さん。
そんな小山正明は、2025年4月、惜しまれながら、90歳で他界されているのですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、小山正明さんの妻との馴れ初め、結婚後の関係(夫婦仲)、子供についてご紹介します。
「小山正明はサンテレビ解説を惜しまれながら勇退していた!」からの続き
小山正明の妻との馴れ初めは?
小山正明さんは、1960年頃、「阪急軍(1936年結成)」の主力打者で初代主将だった宮武三郎さんの娘さんと結婚しています。
実は、小山正明さんが、ある時、合宿所暮らしの寂しさから猿を飼いたいと思い立ち、週刊誌面で猿を譲ってくれる人を募集したところ、
宮武家から応募があり、宮武三郎さんが、生前、大切に飼っていたという猿の「もんちゃん」を譲ってもらえることになったそうで、
小山正明さんが猿を引き取りに宮武家を訪れたことがきっかけで、奥さんと出会ったのだそうです。
ちなみに、この時には既に宮武三郎さんは他界されていたそうで、小山さんは、当初は宮武三郎さんの家だとは知らなかったといいます。
(このエピソードは、1960年「週刊ベースボール」(1月13日号)に「猿がとり持つ小山(阪神)の婚約」というタイトルで掲載されていました)
小山正明と妻の結婚後の夫婦仲は?
ただ、小山正明さんは、プライベートをほとんど明かしておらず、結婚後の奥さんとの夫婦仲など、詳細は不明ですが、
2019年6月、「デイリー」の駐米記者がジーン・バッキーさんを取材するにあたり、小山正明さんを慕っていたジーン・バッキーさんへのお土産として、小山正明さんからジーン・バッキーさんへのコメント動画を撮影した際、
小山正明さんは、
僕はなあ、もうなあ、年取ってなあ。フラフラや。でも女性はきれいに見えるぞ。ユーはどうや?奥さんが亡くなられたのは残念だなあ。僕も女房が亡くなってお互い寂しさはあるけど、ジーンがんばろうで
また会ったときに、いろいろ話をしよう
と、語っており、
奥さんが亡くなられた寂しさを吐露していることから、夫婦仲は良かったと思われます。
ちなみに、小山正明さんとジーン・バッキーさんは、1960年代、共に阪神投手陣を支えていたのですが、
小山正明さんは、1962年にジャパニーズドリームを目指して来日した苦労人のジーン・バッキーさんをいつも気にかけていたそうで、
そんな小山正明さんの動画を記者がジーン・バッキーさんに見せると、ジーン・バッキーさんは涙を流して大喜びし、その後、小山正明さんへの返信動画を記者を通じて送ったといいます。
(ただ、ジーン・バッキーさんは、それから3ヶ月後の9月に他界されています)
小山正明の子供は?
ところで、小山正明さんに子供はいないようです。
小山正明さんは、プライベートについてはほとんど明かしていないため、奥さん同様、詳細は不明ですが、
2014年に、千葉県在住の男性が、ブログに、
小山正明さんと親戚になった
と、投稿しているのを見つけました。
内容はというと、その男性の次女が、小山正明さんの甥っ子と結婚されたとのことでした。
また、実際に小山正明さんが着ていた阪神のユニフォームと帽子とグローブと皮の鞄を、小山正明さんからもらったことが綴られていたほか、小山正明さんの素晴らしい人柄についても綴られていました。
小山正明さんが実際に使用していたという帽子(その男性のブログより)。
小山正明の死因は?
そんな小山正明さんですが、親族によると、2025年4月18日午前、90歳で、急性心不全のため、東京都内の病院で亡くなっています。
葬儀は小山正明さんの遺言により、しめやかに家族葬で執り行われたといいます。
さて、いかがでしたでしょうか。
小山正明さんの、
- 小山正明の「精密機械」のルーツは幼少期にあった?
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 俳優・芥川比呂志とそっくり
- 亭主関白で男尊女卑の考え方をしていた父親のもと「男天国」の家庭で育つ
- 小学5年生の時に野球を始める
- 精密機械のルーツはメンコ、ベッタン、ビー玉?
- 小山正明は特別に1人で阪神の入団テストを受けていた!
- 無名高校の野球部に入部
- 父親に遠縁にあたる阪神のオーナーで電鉄本社社長の野田誠三に依頼状を書いてもらう
- 高校3年生の時に特別に阪神の入団テストを受けていた
- 阪神から2ヶ月以上合否の連絡が来ず洋松ロビンスの入団テストも受けていた
- 小山正明は阪神の入団テストから5ヶ月後に合格通知を受けていた!
- 洋松ロビンスも人数制限で不合格
- 入団テストから5ヶ月後に阪神から合格通知を受け取る
- 打撃投手も兼ねた練習生として大阪(阪神)タイガースに入団
- 一軍昇格後も当初は藤村富美男など主力選手の打撃投手を務めていた
- 小山正明はストレートだけで主力投手となっていた!
- 初登板第1球は大暴投だった
- 4年目の1956年には17勝&防御率1.66の好成績で主力投手になっていた
- ストレートだけで三振の山を築いていた
- 小山正明は渡辺省三を手本にしてコントロールが良くなっていた!
- 5年目の1957年には目標の20勝になかなか到達せず思い悩んでいた
- 1年先輩の投手・渡辺省三をお手本に徹底的に走り込みをして下半身を鍛えていた
- 「精密機械」と称されるコントロールを身に着けたのは渡辺省三のお陰だった
- 小山正明は天覧試合で先発投手に起用されていた!
- 念願の20勝を達成し、一躍、大阪(阪神)タイガースのエースにのし上がる
- 天覧試合の1週間前に先発を告げられていた
- 天覧試合を間近に控え、父親があえて手紙をしたためてきた
- 小山正明は天覧試合で長嶋茂雄と王貞治に同点本塁打を打たれていた!
- 天覧試合では緊張のあまり球が走らなかった
- 天覧試合では王貞治に同点2ランホームランを打たれて交代させられていた
- 交代したルーキーの村山実が長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を打たれて逆転負け
- 天覧試合は野球人生の中で一番印象に残る試合だった
- 小山正明は王貞治を抑える為にパームボールの練習をしていた!
- 巨人の王貞治が苦手だった
- 王貞治を抑えるためにパームボールを使うことに
- パームボールをカージナル戦で駆使し、ことごとく三振を奪っていた
- パームボールを投げた時のキャッチャーの驚いたリアクションを見て味をしめていた
- 大毎オリオンズ移籍後はパームボールを駆使して30勝の最多勝を獲得していた
- 小山正明は練習で暴投し三宅秀史の左目を大ケガさせていた!
- キャッチボールで暴投し三宅秀史の左目に大ケガを負わせていた
- 落ち込むも青田昇コーチらに励まされ予定通り先発すると完封勝利していた
- 三宅秀史はこのケガが原因で以降目立った活躍ができず現役を引退していた
- 三宅秀史の訃報に対する小山正明のコメント
- 小山正明がMVPに選ばれなかった理由が酷すぎる!
- MVPの選考結果に不満を抱いていると噂されるも・・・
- 村山実に握手を求め祝福していた
- MVPは記者たちの投票で必ずしも野球の成績・実績だけで決められていなかった
- 小山正明は日本シリーズの試合中に負けを確信し風呂に入っていた!
- 延長10回裏に阪神が同点に追いつくも小山正明はベンチにいなかった
- リリーフ登板した村山実が西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれ日本シリーズを逃していた
- 風呂に入っていたのは阪神球団への反抗心からだと報じられていた
- 小山正明は大毎の永田雅一オーナーからトレードを熱望されていた!
- 1963年オフにはトレードの噂が流れ始めてマスコミに追い回されるように
- 大毎オリオンズの永田雅一オーナーからトレードを熱望されていた
- 戸沢一隆球団社長から永田雅一の熱い想いを聞きトレードを了承していた
- 小山正明は大毎の永田雅一オーナーから人間性を高く評価されていた!
- 非情さを感じさせず、時折、笑顔を見せるトレード発表だった
- 永田雅一はエースへのこだわりが強かった
- 永田雅一は小山正明の人間性を高く評価していた
- 2リーグ制移行時には多くの選手が無秩序に移籍していた
- 阪神は土壇場でセ・リーグを選択し、その報復で毎日新聞から別当薫、土井垣武ら主力選手を大量に引き抜かれていた
- 小山正明が山内一弘とトレードになったのは貧打線が原因だった!
- 大毎オリオンズのオーナー・永田雅一は阪神に猛アタックして小山正明獲得していた
- 阪神は貧打線に悩まされていた
- 大毎オリオンズのオーナー・永田雅一の熱心な働きかけでトレードが成立していた
- 小山正明は永田雅一オーナーから大変気に入られていた!
- 永田雅一から馬主になることを勧められるも、その意味が分からず断っていた
- 後にチームメイトから永田雅一が馬主でもあることを聞き、馬を断ったことを後悔していた
- 永田雅一から200勝記念に高級腕時計「パテック」をもらっていた
- 晩年は不遇だった永田雅一から「素晴らしい友達がいて幸せだ」と言われていた
- 小山正明は大毎オリオンズ移籍1年目に30勝で最多勝を獲得していた!
- 東京オリオンズ移籍1年目に自己最多の30勝を挙げ最多勝を獲得
- 1971年には通算300勝を達成
- 1972年には大洋ホエールズに移籍し1973年に現役引退
- 小山正明の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- タイトルは最多勝利1回、最多奪三振1回、最高勝率1回
- シーズン最多完封勝利ほか記録多数
- 沢村賞、野球殿堂競技者表彰を受賞
- 背番号
- 小山正明はサンテレビ解説を惜しまれながら勇退していた!
- 現役引退後は阪神・西武・ダイエーでコーチほか解説者としても活動
- 2017年にサンテレビの解説者を勇退していた
- 阪神に入団して3年目にゴルフを始めていた
- ゴルフを始めて3年でシングルになっていた
- 小山正明の妻との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?死因は?
- 小山正明の妻との馴れ初めは?
- 小山正明と妻の結婚後の夫婦仲は?
- 小山正明に子供はいる?
- 小山正明の死因は?
について、まとめてみました。
当初はコントロールが定まらず、来る日も来る日もバッティング投手を務め、投球練習を続けたことで、
「針の穴を通すコントロール」「投げる精密機械」と称されるほどの抜群のコントロールを身につけ、通算320勝(プロ野球歴代3位)という凄まじい記録を残した小山正明さんですが、
特筆すべきは、21年間で一度も肩が痛くなったことがなかったこと。
小山正明さんの美しいフォームを分析すれば、現在の野球でも大いに参考になるかもしれません。
1953年、高校卒業後、大阪(阪神)タイガースに入団すると、快速球と「投げる精密機械」と呼ばれた優れたコントロールで3球団で活躍し、通算320勝232敗、3159奪三振、防御率2.45を記録するほか、シーズン最多無失点勝 …