1953年、高校1年生の夏、ボクシング小説「勝利のかげに」で作家としてデビューすると、1962年には、プロレス漫画「チャンピオン太」で漫画原作者に転身し、
以降、スポーツ漫画を次々と発表すると、1968年、32歳の時には、ちばてつやさんとタッグを組んだボクシング漫画「あしたのジョー」が、社会現象を巻き起こすほどの大ヒットとなった、梶原一騎(かじわら いっき)さん。
今回は、そんな梶原一騎さんの、若い頃(作家デビュー)から死去までの作品ほか経歴を時系列でご紹介します。
「梶原一騎の生い立ちは?幼少期がヤバい!乱暴者で教護院に入れられていた!」からの続き
梶原一騎は高校1年生(17歳)の時にボクシング小説「勝利のかげに」が入選していた
梶原一騎さんは、1953年、高校1年生(17歳)の夏、「少年画報」が懸賞小説を募集していることを知り、原稿用紙30枚ほどのボクシング小説「勝利のかげに」を書き上げ、応募すると、
見事、入選を果たしたそうで、1953年、「少年画報」(1953年11月号)に掲載されたそうです。
以降、梶原一騎さんは、スポーツものの少年小説を数多く執筆するようになったそうですが、やがて、誌面が、少年小説に代わって漫画で占められるようになったそうで、梶原一騎さんの活動の場は狭まってしまったそうです。
梶原一騎は20歳の時に「力道山物語」を発表したことで力道山本人と親しくなっていた
それでも、梶原一騎さんは、「東京中日スポーツ」で「力道山物語」を連載し好評を博すと、
力道山さん本人から直接電話をもらったそうで、このことがきっかけとなり、力道山さんと親しい関係になると、1956年、「冒険王」に初の連載プロレス絵物語「鉄腕リキヤ」(作画・吉田竜夫さん)を発表しています。
梶原一騎は26歳の時に連載漫画「チャンピオン太」がテレビドラマ化されて高視聴率を記録していた
そんな中、「週刊少年マガジン」初代編集長の牧野武朗さんが訪ねてきて、プロレス漫画「チャンピオン太」の原作執筆を依頼されたそうで、
この依頼を受け、1962年、「チャンピオン太」(作画:吉田竜夫さん)の連載をスタートすると、この作品は人気を集めて、テレビドラマ化もされ、ドラマ化にあたって、梶原一騎さんが力道山さん本人に出演を直接頼み、これが実現したことで、高視聴率を記録したそうです。
梶原一騎は30歳の時に漫画「巨人の星」が大ヒット
ただ、梶原一騎さんは、生活のため、自分の意に沿わない漫画の原作を手掛けていたそうで、
そんな中、「週刊少年マガジン」の編集長・内田勝氏と副編集長・宮原照夫氏が、梶原一騎さんのもとを訪てきて、
梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になってほしい
と、熱心に説得され、この言葉で心に火がついたそうで、
1966年、野球漫画「巨人の星」(作画・川崎のぼるさん)の連載を開始すると、「巨人の星」は、連載開始から好評を博して、1968年にはテレビアニメ化され、視聴率30%を超える空前の大ヒットを記録したのでした。
梶原一騎は31歳の時に「柔道一直線」「夕やけ番長」が大ヒット
また、梶原一騎さんは、その後も、1967年に、連載を開始した、「柔道一直線」(作画・永島慎二さん、斎藤ゆずるさん)と「夕やけ番長」(作画・荘司としお)が大ヒット。
特に、「柔道一直線」は、桜木健一さんが主演でテレビドラマ化もされ、大ヒットとなったのでした。
梶原一騎は32歳の時にボクシング漫画「あしたのジョー」が大ヒット
さらに、1968年には、「週刊少年マガジン」で、ボクシング漫画「あしたのジョー」(作画・ちばてつやさん)の連載を開始すると、大反響を呼び、社会現象を巻き起こすほどの爆発的なヒットとなったのでした。
(「巨人の星」との差別化を図るため、ペンネームを「梶原一騎」ではなく、「高森朝雄」としたそうです)
「あしたのジョー」
梶原一騎は37歳の時に純愛漫画「愛と誠」が大ヒット
以降、梶原一騎さんは、
- 1968年「タイガーマスク」
- 1969年「キックの鬼」
- 1970年「赤き血のイレブン」
- 1971年「空手バカ一代」
- 1971年「侍ジャイアンツ」
など、「スポ根もの」で、次々とヒットを飛ばしているのですが、
1973年には、これまでのスポーツものとは一線を画した、梶原版「ロミオとジュリエット」として、純愛漫画「愛と誠」の原作を手掛け、西城秀樹さん主演でテレビドラマ化されると、
キミのためなら死ねる!!
との名ゼリフと共に、大ヒットを記録したのでした。
梶原一騎は39歳の時に映画産業にも進出していた
そんな梶原一騎さんは、1974年には、「梶原プロダクション」を設立して、映画界にも進出しているのですが、
1975年には、梶原一騎さんの原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊さん、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦さんとともに「三協映画」を設立し、文芸、格闘技、アニメ化の三つの路線を展開すると、
格闘技路線で収益が上がり、さらに、映画もヒットし、東映などの大手映画会社からも重視されるようになったそうで、
梶原一騎さんは、映画界の大物と顔を合わせる立場となり、これまでの、単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップとなったのでした。
また、梶原一騎さん原作の漫画「タイガーマスク」が、新日本プロレスで実現すると、1980年代からはプロレス界にも出入りするようになったのでした。
梶原一騎は47歳の時に傷害事件で逮捕され、連載中の漫画作品が全て打ち切られ、単行本も絶版となっていた
しかし、1983年5月25日、「月刊少年マガジン」副編集長・飯島利和さんへの傷害事件で逮捕されると、
- アントニオ猪木監禁事件
- クラブホステスに対する暴行未遂事件
- 「プロレスを10倍楽しく見る方法」のゴーストライターへの恐喝事件
などの、過去の暴力事件や脅迫事件が明るみになったほか、警察には、覚醒剤常習の疑い(結果的には無実)もかけられ、
連載中の漫画作品が全て打ち切りとなって、単行本も絶版となり、梶原一騎さんの名声は、一気に地に落ちてしまったのでした。
梶原一騎は48歳の時に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けていた
その後、梶原一騎さんは、同年(1983年)8月8日、2ヶ月に及ぶ勾留の末に保釈されたそうですが、
(その後、山の上ホテルで食事後に倒れて、病院で壊死性劇症膵臓炎と診断され、一時、命の危機に直面していたそうです)
1985年3月14日、東京地裁で、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けています。
梶原一騎は49歳の時に漫画原作者から小説家に転向していた
そんな梶原一騎さんは、同年(1985年)、かねてより念願だった小説家に転身し、弟の真樹日佐夫さんとの合作で「正木亜都」のペンネームで小説の執筆を開始して、漫画原作者からの引退を宣言すると、
「漫画ゴラク」誌上にて、「梶原一騎引退記念作品」として、1985年5月24日号より、自伝漫画「男の星座」(作画:原田久仁信さん)の連載開始していたのですが・・・
梶原一騎は50歳で死去
1987年の年明け、体調不良により入院すると、同年1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院で、壊死性劇症膵臓炎により、50歳で他界されたのでした。
ちなみに、死後しばらくは、梶原一騎さんについて語ることがタブー視されていましたが、1990年代半ばから再評価の機運が高まり、現在では、”スポ根もの漫画”の第一人者として高く評価されています。
(「男の星座」は、1987年2月13日号まで連載されていましたが、梶原一騎さんの死去により、未完となっています)
梶原一騎の漫画作品(原作)
それでは、最後に、梶原一騎さんの主な漫画作品(原作)をご紹介しましょう。
- 1961年「ハリケーンGメン(作画:九里一平)」
- 1962年「チャンピオン太(作画:吉田竜夫)」
- 1963年「大空三四郎(作画:吉田竜夫)」
- 1964年「二刀流力道山(作画:水島朗)」
- 1965年「魔犬ムサシ(作画:石川球太)」
- 1966年「巨人の星(作画:川崎のぼる)」
- 1967年「柔道一直線(作画:永島慎二、斎藤ゆずる)」
- 1968年「タイガーマスク(作画:辻なおき)」
- 1969年「キックの鬼(作画:中城けんたろう)」
- 1970年「赤き血のイレブン(作画:園田光慶、深大路昇介)」
- 1971年「空手バカ一代(作画:つのだじろう、影丸穣也)」
- 1972年「ボディガード牙(作画:中城健)」
- 1973年「愛と誠(作画:ながやす巧)」
- 1974年「若い貴族たち(作画:佐藤まさあき)」
- 1975年「花も嵐も(作画:川崎のぼる)」
- 1976年「新巨人の星(作画:川崎のぼる)」
- 1977年「青春山脈(作画:かざま鋭二)」
- 1978年「四角いジャングル(作画:中城健)」
- 1979年「真説 柳生十兵衛(作画:小島剛夕)」
- 1980年「覆面プロレス王 タイガーマスク(作画:宮田淳一)」
- 1981年「タイガーマスク二世(作画:宮田淳一)」
- 1982年「悪役ブルース(作画:峰岸とおる)」
- 1985年「一騎人生劇場 男の星座(作画:原田久仁信)」
- 1986年「ピストン堀口物語(作画:影丸穣也)」
ほか、数多くの作品を発表しています。
「梶原一騎は事件を起こして逮捕され有罪判決を受けていた!アントニオ猪木とも?」に続く
1983年5月25日、漫画の掲載内容をめぐって、講談社の「月刊少年マガジン」の飯島利和副編集長と口論になった際、顔を殴る蹴るの暴行を加え、傷害の容疑で逮捕された、梶原一騎(かじわら いっき)さんですが、 これをきっかけに …