1965年、瞳みのるさん、岸部一徳さん、加橋かつみさんと共にインストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、京都や大阪のダンスホールで活動すると、瞬く間に人気を博し、

翌年の1966年には、沢田研二さんをボーカルに迎えて「ファニーズ」へと改名し、プロを目指して合宿生活を送ったという、森本太郎(もりもと たろう)さんは、

その後、ジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになると、やがては、内田裕也さんとの出会いをきっかけに渡辺プロダクションとの契約が決まり、上京することになったといいます。

今回は、森本太郎さんの、若い頃(「サリーとプレイボーイズ」時代~「ファニーズ」時代)をご紹介します。

森本太郎

「森本太郎の生い立ちは?小学校の同級生・瞳みのるとバンドを結成していた!」からの続き

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森本太郎は19歳の時に「サリーとプレイボーイズ」で人気を博していた

森本太郎さんは、1965年、瞳みのるさん、岸部一徳さん、加橋かつみさんと共に、バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成していたのですが、

もともと、4人とも、「ベンチャーズ」に憧れていたことから、「サリーとプレイボーイズ」はボーカルのいないインストゥルメンタルバンドだったそうで、主に「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏していたといいます。

(パーティー券を売っては、ダンスホールでの演奏を繰り返すと、たちまち、人気を博したそうです)

森本太郎は19歳の時に沢田研二を「サリーとプレイボーイズ」のボーカルとして誘っていた

ただ、やがては、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」などが流行り始め、

これからは歌を歌わなきゃいけないんだ

歌う人を探さなきゃ

と、専属ボーカルの必要性を感じるようになったそうで、

四条河原町のダンスホール「田園」で「サンダース」というバンドでボーカル兼サポートメンバーとして活動し、歌が上手いと評判だった、沢田研二さんを、森本太郎さんと岸部一徳さんが誘うと、

1966年元旦には、沢田研二さんが「サリーとプレイボーイズ」に加入。

それと同時に、「サリーとプレイボーイズ」は、「ファニーズ」に改名したのだそうです。

ちなみに、森本太郎さんによると、

沢田研二さんは、

他のバンドは年寄りが多いから・・・

と、言っていたそうで、

4人全員が10代と若かったため、「サリーとプレイボーイズ」に入ったのだそうです。

森本太郎は19歳の時に「ファニーズ」としてジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けるも不合格だった

そして、沢田研二さんがバンドに加入し、歌が加わったことで、それまでは、京都のジャズ喫茶で演奏したり、ダンスパーティーを企画したりするなど遊び感覚でやっていたのが、プロになろうという気持ちが強くなり、

大阪・難波(なんば)にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディション合格を目指して、懸命に練習を重ねるようになったそうで、

(森本太郎さんたち4人は、プロになるにはプロダクションにスカウトされなければダメだと考えていたことから、内田裕也さん率いる「ブルージーンズ」などプロで有名な人やプロダクションとつながりのあるアーティストがたくさん出演していた「ナンバ一番」に魅力を感じたのだそうです)

その後、岸部一徳さん(一説には瞳みのるさん)がオーディションの約束を取り付けると、1966年1月16日の本番では「ビートルズ」の「I Saw Her Standing There」、「ディブ・クラーク・ファイブ」の「Do You Love Me」を演奏したそうですが・・・

残念ながら不合格だったそうです。

森本太郎は19歳の時に代役で「ファニーズ」としてジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演しファンを増やしていた

しかし、後日、森本太郎さんの自宅に電話がかかってきて、

ナンバ一番に出てほしい

と、言われたそうで、

(予定していた出演者が急に出られなくなったため、代役だったそうです)

森本太郎さんが、慌てて、みんなに

ファニーズがナンバ一番に出られるよ

と、連絡すると、みんなは大喜び。

ただ、「ファニーズ」の出演は、たった1日だけで、しかも、売れているバンドの前座だったそうです。

それでも、そのたった1日の出演で、ファンになってくれた人たちがいたそうで(元々は「ファニーズ」の後に出るバンドのファン)、

これをきっかけに、ファンが増えていき、「ナンバ一番」にたくさん出演することができるようになったのだそうです。

森本太郎は19歳の時に「ファニーズ」として「全関西ロックバンド・コンテスト」で優勝していた

こうして、「ナンバ一番」のステージに立つようになった「ファニーズ」は、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」などの楽曲を英語で披露すると、そのパフォーマンスは瞬く間に評判を呼び、ほどなくしてファンクラブが結成されるほか、出演回数も右肩上がりに増えていき、

1966年5月10日には、京都会館で開催された「全関西ロックバンド・コンテスト」に出場すると、「ローリング・ストーンズ」の「サティスファクション」を演奏し、見事、優勝したのだそうです。

ただ、森本太郎さんは、優勝したことについて、

「ローリング・ストーンズ」の『サティスファクション』を演奏したんですけれど。僕はマネジャーが裏から手を回して優勝させたんじゃないかと思っているんです(笑)。だって、優勝するだけのテクニックがあるわけないですから。

僕は高校で軽音楽部に入ってリードギターを担当したり、トッポ(加橋かつみさん)もギターを弾いていたらしいけれど、ドラムの瞳(みのる)もベースのサリー(岸部一徳さん)も全然楽器に触ったことがなかった。それが、練習を始めて1年で優勝って……(笑)。

と、語っています。

「ファニーズ」
「ファニーズ」。(前列が)瞳みのるさん、(後列左から)森本太郎さん、加橋かつみさん、沢田研二さん、岸部一徳さん。

森本太郎は19歳の時に沢田研二ほか「ファニーズ」のメンバーと共に「明月荘」で合宿生活を始めていた

また、森本太郎さんたち「ファニーズ」のメンバーは、なるべくたくさんのステージに立ち、スカウトの目に留まるようにと、「全関西ロックバンド・コンテスト」から3日後の1966年5月13日から、「ナンバ一番」の近くの、大阪市西成区岸里の古いアパート「明月荘」で合宿生活を始めるようになったそうで、

やがては、「日本一のバンドになる」という目標が定まったのだそうです。

ちなみに、この「明月荘」は、木造2階建ての、湿気の多い、薄汚れた、三畳一間(共同トイレ)というアパートで、昼間でさえ暗く、決して快適な環境ではなかったそうですが、

森本太郎さんは、

「日本一」という言葉は、多分、サリーが言い出したんだと思います。今になってみると「下手くそなバンドなのに、よくそんな法螺(ほら)が吹ける」って思うけれど、当時は5人でワクワクしていましたね。

と、語っています。

「明月荘」
「明月荘」はファンの聖地として親しまれましたが、2019年4月に取り壊されてしまったそうです。

森本太郎は19歳の時に「ファニーズ」として「ザ・スパイダース」の田邊昭知から東京進出を誘われていた

そして、合宿生活を始めて1ヶ月が経った頃、森本太郎さんと沢田研二さんが、東京・銀座にある名門ライブハウス「ACB(アシベ)」を訪れた際には、

当時のグループ・サウンズ界を牽引していた「ザ・スパイダース」のリーダー・田邊昭知さんから、

上京するならスパイダクション(現・「田辺エージェンシー」・・・田邊さんら「ザ・スパイダース」のメンバーが設立)へ来ないか

と、「スパイダクション」に入るように誘われたそうで、

森本太郎さんと沢田研二さんが、大阪に戻ってこの話を他のメンバーにすると、みんな、飛び上がって喜んだといいます。

というのも、森本太郎さんたち「ファニーズ」のメンバーは、全員、ファンクラブに入会するるほどの「ザ・スパイダース」の熱狂的なファンだったそうで、

以前、大阪公演を観に行った際には、メンバーの井上堯之さんから直接激励を受け、感激していたのだそうです。

森本太郎は19歳の時に「ファニーズ」として「ブルージーンズ」の内田裕也からスカウトされていた

ただ、その後、田邊昭知さんからは一向に連絡がなかったそうで、森本太郎さんと沢田研二さんが、待ちきれなくなって再び上京し、田邊昭知さんに直接面会したそうですが・・・

田邊昭知さんの反応は、以前の熱量とは打って変わった冷ややかなものだったそうで、

結局、その場での進展はなく、夢のようなスカウト話はうやむやのまま立ち消えとなってしまったのだそうです。

しかし、そんな中、ある日、森本太郎さんたちが「ナンバ一番」で楽屋に向かっていた際、共演者だった「ブルージーンズ」の内田裕也さんから、

(なぜか沢田研二さんが)

東京に出て来ないか

と、声をかけられたそうで、

森本太郎さんたちは、

東京に行きたいです

と、即答。

すると、またしても、しばらく音沙汰なしの状態が続いたそうで、

(内田裕也さんにはスカウトの権限がなかったのだそうです)

今度は、瞳みのるさんが業を煮やし、3ヶ月後の1966年9月12日、話をつけるため、単身上京すると、9月14日、内田裕也さんから宿舎ホテルに呼ばれ、内田裕也さんのバンド「ブルージーンズ」が所属していた「渡辺プロダクション」を紹介してもらう約束をとりつけたのだそうです。

そして、同年10月9日には、「渡辺プロダクション」の偉(えら)い人が大阪まで来て、「ナンバ一番」で「渡辺プロダクション」のオーディションを受けると、10月21日には、見事合格の電話をもらい、契約が決まったのだそうです。

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森本太郎は19歳の時に「ファニーズ」として「渡辺プロダクション」との契約が決まるも悩んでいた

こうして、「ファニーズ」のメンバーたちは、上京してプロになることを、それぞれ家族に報告したそうですが、

森本太郎さんだけは、お母さんが東京行きを望んでおらず、悩んでいたといいます。

ただ、最終的には、岸部一徳さんのお父さんらに説得され、東京行きを決意したそうで、

森本太郎さんは、インタビューで、

「ナンバ一番」に出た頃には、僕らはプロになるつもりで全員高校を中退していますからね。親はもう諦めていたと思います。

僕はそのまま大学に進める立命館高校に通わせてもらって、サラリーマンになると思っていたのに・・・ですからね。でも、反対することもなく、思い通りにさせてくれた親には感謝しています。

と、語っています。

(森本太郎さんの両親(特に母親)は、もともと、森本太郎さんが大学に進学してサラリーマンになることを望んでおり、森本太郎さんが音楽活動をすることに反対だったそうですが、最終的には、「諦める」という形で受け入れてくれたのだそうです)

「【画像】森本太郎の若い頃(ザ・タイガース時代)のヒット曲ほか経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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