松本清張の死因は?推理小説作家!或る小倉日記伝で芥川賞!歴史小説も!

Sponsored Link

1953年、「或る『小倉日記』伝」「第28回芥川龍之介賞」を受賞し、その後、「点と線」「眼の壁」で推理小説ブームを巻き起こした、作家の松本清張(まつもと せいちょう)さん。推理小説以外にも、現代小説、ノンフィクション、歴史小説など、膨大な数の作品を執筆されています。




「~朝日新聞社に就職~戦後はほうき売のバイト~」の続き

「西郷札」が小説コンクールの第3位に


そんなある日、松本さんは、
「週刊朝日」「百万人の小説」で、
作品を募集をしているのを知ったそうで、

当初は応募する気がなかったものの、
懸賞金目当てに、勤務の合間に、
歴史小説「西郷札(さいごうさつ)」を執筆されると、

1951年、同コンクールの3位に入選!

(賞金10万円を手にされたそうです♪)


西郷札 (新潮文庫―傑作短編集)


「芥川龍之介賞」を受賞


さらに、この作品は、
「第25回直木賞」候補となり、

松本さんは、木々高太郎(きぎ たかたろう)さんなど、
尊敬する推理作家3人に掲載誌を送ったところ、

このうちのひとり、木々さんから、

大そう立派なものです。
本格もの矢つぎ早に書くことをおすすめいたします。

と、激励されたそうで、

1952年、木々さんが編集されている、
文芸雑誌「三田文學」に、

「記憶」
「或る『小倉日記』伝」


の短編小説を発表。

すると、1953年、
「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補に。


或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)

そして、後に、芥川賞選考委員会に回されると、
選考委員会の一人だった、作家の坂口安吾さんに絶賛され、
「第28回芥川龍之介賞」を受賞されたのでした。


芥川賞受賞当時の松本さん。

朝日新聞社を退社


また、同年12月には、
「朝日新聞東京本社」に転勤となり、単身上京。

翌年の1954年には、
家族を東京に呼び寄せられ、

6畳1間と4畳半2間の借家で、
両親、奥さん、お子さん3人との、
生活をスタートされていたのですが、

朝日新聞社の玄関で、
偶然出会った、作家の井上靖さんに、

「そろそろ辞めてもいいころじゃないか」

と、言われたことをきっかけに、
1956年5月、朝日新聞社を退社。

以降、作家活動に専念されたのでした。

推理小説作家として~清張ブームの始まり~


そんな松本さんは、1955年「張込み」より、
推理小説を書き始めると、


張込み (新潮文庫―傑作短篇集)

1957年、短編集「顔」が、
「第10回日本探偵作家クラブ賞」を受賞。
(現在の「日本推理作家協会賞」)


顔 日本推理作家協会賞受賞作全集 (9)

また、同年、雑誌「旅」に、「点と線」を、
「週刊読売」に、「眼の壁」を連載すると、

翌年の1958年には刊行され、
2作品とも、たちまちベストセラーに。



その後も、松本さんは、

1959年「ゼロの焦点」
     「かげろう絵図」
     「黒い画集」
     「小説帝銀事件」




1960年「黒い樹海」
     「波の塔」
     「日本の黒い霧」
(ノンフィクション)



など、推理小説、現代小説(長編)を、
次々と発表されると、

1961年には、ついに、
前年度の高額納税者番付で家部門の1位に輝かれ、
東京都杉並区高井戸に、新居を構えられたのでした。


ノンフィクション作品もベストセラーに


そんな松本さんは、その後も、

1961年「歪んだ複写」
     「わるいやつら」
     「砂の器」




1962年「深層海流」
1963年「水の炎」
1964年「けものみち」



と、小説を書き続けられているのですが、

1964年から(1971年まで)、週刊誌「週刊文春」で、
二・二六事件に至る経緯を、関係者への取材や膨大な資料を元に、
史実に基づいて書いたノンフィクション作品、
「昭和史発掘」の連載をスタートすると、

単行本の発行部数が、
300万部を突破する大ベストセラーに。


昭和史発掘〈1〉 (文春文庫)[新装版]

さらに、1970年には、
この作品で「第18回菊池寛賞」を受賞されたのでした。

松本さんは、この時、

自分は作家としてのスタートが遅かったので、
残された時間の全てを作家活動に注ぎたい。

と、おっしゃっていたそうです。

歴史小説


また、1970年代以降、「西海道談綺」や、
奈良時代を題材にした「眩人」などの歴史小説を発表されると、

古代史についての対談を行われたり、
学界の第一人者と交流されたりと、
当時の古代史ブームの火付け役となられます。



そして、1970年代後半から1980年代にかけては、
海外の遺跡巡りをされたり、
各国の推理作家・著名人と交流されるなど、
執筆以外にも、積極的に活動されたのでした。


死去


そして、1990年代になると、
次第に執筆量は減っていくものの、

歴史小説への情熱を持ち続け、
織田信長の比叡山焼き討ちを、
延暦寺側の視点から描いた作品の構想を練り、

1992年春頃から、
取材を開始されていたようです。

しかし、同年4月20日、
「脳出血」のため入院されると、手術は成功するも、

同年7月、「肝臓がん」であることが判明。
8月4日に他界されたのでした。



さて、いかがでしたでしょうか?

作家になって名を成すまでは、
貧困のため、苦労と挫折の連続で、

また、作家になったのも、
生活費を稼ぐためだった松本さん。

若い頃の苦労や、ほうき売りの間に名所旧跡巡りをし、
古代史の知識を身につけたことは、
その後の作品に大いに役立ったとのことですが、

松本さんは、作家の森本哲郎さんに、

「作家の条件って、なんだと思う?」

と問いかけ、森本さんが、

「才能でしょう」

と答えると、

ちがう。原稿用紙を置いた机の前に、
どれくらい長く座っていられるかというその忍耐力さ。

と、答えられたというエピソードがありました。

何より、この忍耐力こそが、
松本さんの才能だったのかもしれませんね。

今でも色褪せない、松本さんの作品、
これを機会に読まれてみてはいかがでしょうか。



  • LINEで送る
Sponsored Link

Sponsored Link

関連記事

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

カテゴリー

ブログランキング

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑ 押して頂けると嬉しいです(*^_^*)

このページの先頭へ