「仁義なき戦い 広島死闘篇」や「県警対組織暴力」では、体を張った演技で監督や共演者から絶賛され、「激しい暴力を受けるチンピラ役」としての地位を確立された、川谷拓三(かわたに たくぞう)さん。そんな川谷さんは、やがて、世間で大きな注目を浴びるようになっていきます。
「川谷拓三の仁義なき戦いでのやられ役(リンチ)が壮絶過ぎる!」からの続き
萩原健一に誘われ「前略おふくろ様」に出演
「全身火だるま」になる役や「リンチで惨殺」される役など、体を張り続け、1975年には、深作欣二監督の「県警対組織暴力」で、「京都市民映画祭」助演男優賞を受賞された川谷さんですが、
その後、東京で飲んでいると、偶然、お客として居合わせた萩原健一さんから、
「県警対組織暴力」、見ましたよ。松井卓(役名)、よかったですね。今度一緒に仕事をしましょう。
と、声をかけられたそうで、
川谷さんは、その時は、単なる社交辞令だと思っていたそうですが、その後、プロデューサーを通じて、萩原さん主演のテレビドラマ「前略おふくろ様」のオファーを受け、同じく「東映」の室田日出男さんとともに、酒癖の悪い鳶(トビ)職人・利夫役で出演。
「前略おふくろ様」より。川谷さんと萩原健一さん。
1976年には、映画「トラック野郎・望郷一番星」にも、室田さんとともに出演され、以降、川谷さんは、お茶の間にも広く知られることとなります。
「トラック野郎・望郷一番星」より。室田日出男さん(左)と川谷さん(右)。
ピラニア会
そんな川谷さんは、実は、1960年代後半から、自身と同じ「東映」のヤクザ映画や時代劇で、キャストクレジットに名前が登場しない、「脇役」「斬られ役」として出演し、大部屋仲間だった、志賀勝さん、岩尾正隆さんらと、忘年会をやろうということになったそうで、やがて、その集まりは、志賀さんによって、「ピラニア会」と名付けられたそうです。
すると、次第に、ほかの脇役や、「東映ニューフェイス」出身ながら、まだ芽が出ていなかった、室田日出男さん、小林稔侍さん、片桐竜次さん、成瀬正孝さんらが加入。
さらには、当時、まだ若手だった渡瀬恒彦さんが束ねて発起人となり、1975年には、「東映ピラニア軍団」が結成されたのでした。
「東映ピラニア軍団」結成式では深作欣二や千葉真一も
そして、1975年、「東映ピラニア軍団」の結成式が、大阪市の御堂筋会館で行われると、千葉真一さん、渡瀬恒彦さん、深作欣二監督も立ち会われ、千葉さんはというと、舞台には上がらず、カメラ片手に客席から声をかけて場を盛り上げられたそうで、
川谷さんは、
ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ、ホンマおおきに!
と、千葉さんに感謝して、号泣。
後に、当時の東映の岡田茂社長は、
東宝や松竹が青春映画と銘打って、山口百恵や桜田淳子という歌手を映画に引っ張り出しているのと同じように、ウチも何とか手を打たなければならないと考えていたら、ピラニア軍団が出てきたんです。運よくね。
と、語っておられるのですが、
「東映ピラニア軍団」は、マスコミにも取り上げられ、徐々に注目を集めると、やがて、「ピラニア軍団」ブームが訪れるなど、注目を浴び、最終的には20人ほどになったのでした。
「河内のオッサンの唄」で初主演
さらに、1976年には、川谷さんは、「ピラニア軍団」が総出演した映画「河内のオッサンの唄」で、一般映画では初の主演に抜擢。
「河内のオッサンの唄」より。川谷さんと夏純子さん。
1977年には、LP「ピラニア軍団」までリリース(坂本龍一さん・村上秀一さん・かしぶち哲郎さん・後藤次利さん・斎藤ノブさんら一流ミュージシャンが参加)され、盛り上がりを見せたのですが・・・
当時の映画界の斜陽もあってブームは短命に終わり、1980年代に入り、「ピラニア軍団」は自然消滅したのでした。
「ピラニア軍団 ダボシャツの天」より。橘麻紀さんと川谷さん。
ちなみに、川谷さんは、
鶴田先生の付き人として、チョイ役とはいえヤクザ映画に出演させてもらえることは、役者・川谷拓三にとって新境地を見出す、大きな運でもあったような気がするのだ。
そうした意味でも僕は再び、鶴田先生に一生かかっても返しきれないご恩をいただいたことになるだろう。だが、約5年という長い付き人生活も、破門という形で終わりを迎えた。
と、著書「3000回殺された男~拓ボンの体当たり映画人生」で語っており、
1972年頃から鶴田さんと絶縁状態になってしまったのが、「ピラニア軍団」設立の理由の一つだったと言われています。
「川谷拓三のどん兵衛ほか出演ドラマ映画cmを画像で!」に続く