1987年、大型スラッガーとして期待され、ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団すると、度重なる怪我に苦しみながらも、持ち前のパワーで人気を博した、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さん。
今回は、そんな長嶋一茂さんの、若い頃(高校時代から大学時代まで)の経歴を時系列でご紹介します。

「長嶋一茂の生い立ちは?幼少期から運動神経抜群もマスコミ殺到で野球を辞めていた!」からの続き
長嶋一茂は高校1年生の時に右肘を剥離骨折し野球を続けるのが困難になっていた
お父さんの長嶋茂雄さんが、当初の留任条件をクリアしていたにもかかわらず、巨人軍の監督を辞任させられ、巨人フロントへの復讐心で、野球を再開したという長嶋一茂さんは、
お父さんの長嶋茂雄さんと同じ立教大学で野球をしたいと思い、立教高等学校に進学して野球部に入部したそうですが、長期間のブランクのため、キャッチボールもままならない状態だったそうです。
それでも、地肩の強さを監督に評価され、ピッチング練習に励んでいたそうですが・・・

立教高校時代の長嶋一茂さん。
いきなり、練習中、突然、「バチン」という音とともに右肘を剥離骨折してしまったそうで、関節間に骨の破片が入り込み、医師からは野球継続不可能と宣告されてしまったのだそうです。
お父さんの長嶋茂雄さんが巨人軍の監督を解任され、巨人軍への復讐心から野球を再開する決意をしたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、高校入学後、さっそく野球部に入部すると、地肩の強さを認められピッチング練習を始めた …
長嶋一茂は高校1年生の時にピッチャーを断念しバッターに専念していた
それでも、長嶋一茂さんは諦めず、根拠のない確信で、「いつか4番バッターになる」と信じ、ギプスをしたまま球拾いを続けたそうで、右肘剥離骨折が回復すると、痛みをこらえながらピッチング練習を続けたそうですが、
その後、ピッチャーを断念しバッターに専念したそうで、日本にいない大リーガータイプのホームランバッターを目指し、飛距離向上のためスイングスピードが重要と考え、毎晩、夢中で素振り練習に励んだのだそうです。
そして、筋力向上のため、当時はまだ珍しかったウエイトトレーニングも独学で開始したそうで、みんなと同じなのが嫌いな性格から、昼のランニングをさぼり、深夜にウエイトトレーニングに励んだのだそうです。
そんな長嶋一茂さんは、高校1年の秋には、右肘も癒え、レフトに転向して試合に出られるようになったそうですが・・・
高校から野球を再開するも、ピッチング練習中、右肘を剥離骨折するという大ケガを負ってしまった、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、その後は、ピッチャーを断念し、バッターに専念することにしたといいます。 「長嶋一茂は高校時 …
長嶋一茂は高校時代は技術的には未熟も将来を有望視されていた
文化祭の練習試合では、打球との距離感がつかめず、レフトフライを素人のようなバンザイエラーで捕り損ね、転がるボールを追いかけるという、恥ずかしい思いをし、
長嶋の息子のくせに下手だ
と、罵声を浴びたこともあったそうですが、
後にプロ野球選手となった矢作公一氏も、後年、当時の長嶋一茂さんのことを、
ただのすごく下手な人だった
と、振り返っています。
ただ、その一方で、長嶋一茂さんは、人間離れした原始的なパワーとスピードを秘めていたそうで、
矢作氏は、
とてつもない潜在能力
と、絶賛しています。
また、長嶋一茂さんは、そのギリシャ彫刻のように均整の取れた奇跡的な体格から、
他の野球関係者にも、
何十年にひとりの超大型の大器
と評され、将来を有望視されたのでした。

高校1年生の秋、文化祭で行われた野球部の練習試合では、レフトフライをバンザイする、素人のようなミスをして、恥ずかしい思いをしたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、技術不足から、しばしば、見物人から罵られることが …
長嶋一茂はバンザイで矢作公一を惹きつけていた?
ちなみに、当時、少年野球のエリートだった矢作公一氏は、プロで活躍するために、とにかく目立とうと、注目選手がいる高校への進学を計画し、「早稲田実業の荒木大輔」か「立教高校の長嶋一茂」で悩んでいたそうで、そんな中、立教の練習試合に偵察に訪れると、
長嶋一茂さんが素人同然のミスをしながらも、全く腐らずに全力でボールを追いかける姿を目撃したそうで、
その清々しい姿に、
この人と野球がしたい
と、強く心を動かされ、
名前を売るという当初の打算的な目的は消え、長嶋一茂さんと共にプレーしたい一心で立教高校への進学を決めたといいます。
高校から野球を再開するも、長年のブランクで、普通の人が簡単に出来ることもなかなか出来ず、高校1年生の秋、文化祭で行われた野球部の練習試合では、レフトフライをバンザイする、素人のようなミスをして、恥ずかしい思いをしたという …
長嶋一茂は高校3年生の時に埼玉県予選準決勝でサヨナラ負けし甲子園出場を逃していた
そんな長嶋一茂さんは、高校2年生になると、チームの主軸となり、高校3年生の時には、悲願だった甲子園出場を目指して、埼玉県予選準決勝に挑むのですが・・・
試合は、延長戦にもつれる投手戦の末、0-1でサヨナラ負けを喫し、甲子園への道は絶たれています。
高校1年生秋の練習試合では、まだまだ技術不足で、素人のような無様なバンザイでレフトフライを捕り損ねるも、転々と転がるボールを、意気消沈したり暗くなったりすることなく、一生懸命追いかける姿で、後にプロ野球選手となる矢作公一 …
長嶋一茂は高校時代と大学時代にサボりの天才と陰口を叩かれていた
ちなみに、長嶋一茂さんは、高校1年からプロ入りするまで、
球拾いの振りをして昼寝したり、ジュースを買いに行くのは日常茶飯事で、見つからないよう必ずポケットにボールを忍ばせて「ボール探し」の言い訳まで用意していたそうで、
サボりの天才
サボり屋
と、陰口を叩かれていたといいます。
ただ、サボるのは先輩に押し付けられた無意味な練習や雑用のみで、自主練習は徹底していたそうで、寮の屋上で毎晩夜更けまで素振りを続けていたのだそうです。
(3年間ブンブンという音が響いていたといいます)
また、大学では、さらにこの傾向が強まったそうで、「練習中は水分補給禁止」の旧態依然とした鉄則を破り、こっそりと自販機にジュースを買いに行っていたそうですが、これも、旧日本陸軍の訓練に由来する非合理的な慣習への反発だったそうで、
長嶋一茂さんは、合理性より上下関係を重視し、理不尽なしごきに耐える”良いスポーツ選手”になりたいとは一度も思わなかったのだそうです。
高校2年生の秋には、チームの主軸になるまでに成長し、高校3年生の夏には、甲子園を目指して埼玉県予選準決勝まで進んだ、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、実は、野球を再開した高校生の時からプロ野球に入るまで、ずっと、 …
とはいえ、長嶋一茂さんの、この「無駄なことはしたくない」という合理的な考え方は、周囲との摩擦や軋轢(あつれき)を生んだのだそうです。
「サボりの天才」「サボり屋」などと陰口を叩かれるも、実際のところは、自分にとって必要な練習は、人の見ていないところでしていたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、先輩から押し付けられた、無意味と思われる練習や …
長嶋一茂は立教大学進学後は1年生からレギュラーとして活躍していた
さておき、1984年、長嶋一茂さんは立教大学に進学し、野球部に入部すると、1年生からレギュラーとして活躍すると、
1987年、大学4年生の時には、主将に就任し、4番打者として、東京六大学野球の春季リーグ戦で打率3割4分を記録し、ベストナインに選出。
また、同年には、学生選抜チームとして日米大学野球選手権大会に出場するほか、アジア選手権大会では130メートルのホームランを放つなど、注目を集め、
東京六大学野球の秋季リーグ戦では、早稲田大学戦で同点からの勝利に貢献すると、続く、明治大学、慶應義塾大学でもチームは勝利するのですが、優勝のかかった法政大学戦では活躍できず、チームは優勝を逃して2位に終わったのでした。
先輩から押し付けられた、無意味だと思える練習や雑用はサボるも、人知れず、自ら課した自主トレーニングに励んでいたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、その甲斐あってか、大学進学後、野球部に入部すると、メキメキと頭角 …
そんな長嶋一茂さんは、法政大学との試合の後、当時、交際していた彼女の実家に夕食に招かれたそうですが、食事の最中、試合の話をしていると、不覚にも涙が止まらなくなったといいます。
立教大学に進学し、野球部に入部すると、メキメキと頭角を現し、東京六大学野球の秋季リーグ戦では、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学に次々と勝利するも、優勝のかかった法政大学戦では敗退してしまった、長嶋一茂(ながしま かずし …

「【画像】長嶋一茂の若い頃(ヤクルトスワローズ時代)は野村克也監督と確執!」に続く
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