歌舞伎役者としてだけでなく、ミュージカル「オセロ」「ラ・マンチャの男」「王様と私」、NHK大河ドラマ「黄金の日日」「山河燃ゆ」、映画「大忠臣蔵」「雲霧仁左衛門」に出演するなど、テレビドラマ、映画、舞台、ミュージカルと、幅広く活躍している、2代目松本白鸚(にだいめ まつもとはくおう)さん。
今回は、そんな2代目松本白鸚さんの、若い頃(生い立ち)から現在までの経歴を代表作を交えて時系列でご紹介します。

2代目松本白鸚の高麗屋は歌舞伎界でも歴史と伝統のある家柄
2代目松本白鸚さんの屋号は「高麗屋」ですが、この「高麗屋」は、歌舞伎界でも特に歴史と伝統のある家柄で、
特に「勧進帳」の武蔵坊弁慶など、力強く重厚な役どころが、7代目松本幸四郎さん、8代目松本幸四郎(初代松本白鸚)さん、2代目松本白鸚さん、10代目松本幸四郎さんと、父から子へと四代にわたって名跡が受け継がれているのですが、
2代目松本白鸚さんは、歌舞伎だけでなく、海外のミュージカルでも主演を務めるなど、伝統ある家柄の看板を背負いながら、多方面でその才能を発揮しています。
歌舞伎役者として活躍するかたわら、ミュージカル、現代劇、シェークスピア劇でも才能を発揮し、2016年には、主演を務めた「ラ・マンチャの男」が、帝国劇場での初演から上演回数1236回に上った、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さん。 今回はそんな2代目松本白鸚さんの両親と家系図をご紹介します。
ただ、こうした華々しい活躍の裏では、実の弟でありながら他家(播磨屋)へ養子に出された2代目中村吉右衛門さんの存在があり、
同じ高麗屋の血を引きながら、異なる屋号を背負って生きることとなった兄弟の間には、いつしか根深い「不仲説」が囁かれるようになりました。
歌舞伎役者・初代松本白鸚さんと初代中村吉右衛門さんの娘・波野正子さんを両親に持つ、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、今回は、実弟の、2代目中村吉右衛門さんとの不仲説の真相をご紹介します。
2代目松本白鸚は3歳の時に東京劇場「助六」の外郎売のせがれ役で初舞台を踏み2代目松本金太郎を襲名
そんな2代目松本白鸚さんは、お父さんの初代松本白鸚さんとお母さんの初代中村吉右衛門さんの娘・波野正子さんのもと、長男として誕生すると、
1946年5月、3歳の時、東京劇場「助六」の外郎売(ういろううり)のせがれ役で初舞台を踏み、2代目松本金太郎を襲名しています。

初舞台「助六」の楽屋にて。(左から)GHQのバワーズ少佐、2代目松本金太郎(現・2代目松本白鸚)さん、(父親の)初代松本白鸚さん。
由緒正しい歌舞伎の名門に生まれ、幼少期は両親の愛情を一心に受けて育ったという、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、1946年、3歳の時、東京劇場で上演された「助六」の外郎売のせがれ役で初舞台を踏むのですが、舞台に出るのを嫌がり、お母さんにしがみついて泣きわめいていたといいます。
2代目松本白鸚(2代目松本金太郎)は7歳の時に東京劇場「ひらかな盛衰記・逆櫓」の遠見の樋口役で6代目市川染五郎を襲名
そして、1947年、5歳の時には、
- 「靭猿(うつぼざる)」の小猿役
- 「夏祭浪花鑑(なつまつり なにわ かがみ)」のせがれ市松役
- 「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」の長松役
- 「盛綱陣屋」で小三郎役
1948年、6歳の時には、母方の祖父・初代中村吉右衛門さんが清正役を演じる演目で秀頼役を演じるほか、踊りも舞台で披露するようになるなど、着実に子役としてキャリアを積むと、
1949年9月、7歳の時には、東京劇場「ひらかな盛衰記・逆櫓」で、遠見の樋口役を演じ、6代目市川染五郎を襲名しています。
1946年5月、3歳の時、東京劇場で上演された初舞台「助六」では、舞台に出るのを嫌がり、お母さんにしがみついて泣きわめいていたという、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、 終戦後の食糧難の中、着実に子役としてキャリアを積むと、7歳の時には、6代目市川染五郎を襲名したそうです。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は小学校から高校までイジメに遭っていた
その一方で、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、学校が終わると、友達と遊ぶ間もなく、稽古場を回らなければならなかったことや、小学6年生の時には、修学旅行で京都に行くも、舞台に出演するため、一人だけ途中で東京に帰らなくてはならなかったそうで、
このような経験から、役者の家に生まれてきたことを悲しく思ったこともあったといいます。
また、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、小中高とずっと言葉によるイジメを受けていたそうで(小中高一貫校だったためいじめっ子もずっと同じ学校だった)、すっかり引きこもりとなってしまったそうですが、
この経験がきっかけとなり、歌舞伎の芸の稽古を駆け込み寺と考え、より辛い稽古に自身を追い込むようになったといいます。
初舞台後は、「靭猿」「夏祭浪花鑑」「幡随院長兵衛」「盛綱陣屋」などの舞台に出演するほか、「かつお売り」では踊りの初舞台も踏むと、1949年9月、7歳の時には、東京劇場で上演された「ひらかな盛衰記・逆櫓」で遠見の樋口役を演じて、6代目市川染五郎を襲名するなど、着実にキャリアを積んでいた、2代目松本白鸚(にだいめ まつもと はくおう)さんですが、 学校では長年に渡ってイジメを受けていたほか、小学6年生の修学旅行では、舞台のため、一人だけ途中で帰らなければならないなど、役者の家に生まれたことを悲しく思ったこともあったといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は13歳の時に「たけくらべ」で映画デビューも果たしていた
そんな中、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、1955年、13歳の時には、五所平之助監督作品「たけくらべ」で映画デビューすると、
1957年、15歳の時には、福田恆存さん作・演出による文学座の舞台「明智光秀」で織田信長の家来・森蘭丸役を演じるなど、歌舞伎以外にも映画や新劇の舞台に出演するようになったそうです。

「たけくらべ」より。6代目市川染五郎(現・2代目松本白鸚)さんと美空ひばりさん。
また、父・8代目松本幸四郎さんの新しい試みだった、歌舞伎と文楽(人形浄瑠璃)の合同公演「日向嶋」で「義太夫」(浄瑠璃)という新しい芸の稽古にも励んだそうです。
子役として着実に歌舞伎のキャリアを積んでいた、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、中学時代には、ラジオドラマ、映画、文学座の舞台など、歌舞伎以外のお芝居もするようになったといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は14歳の時に映画「太陽の季節」に憧れ歌舞伎を辞めようと思ったことがあった
とはいえ、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、1956年、14歳の時、映画「太陽の季節」を観ると、この映画の原作者だった石原慎太郎さんと、この映画で華々しくデビューした石原裕次郎さん兄弟がとてもまぶしく見えたほか、
この映画に出てくるような、のびのびと自由に生きている同年代の若者がうらやましくてしかたがなく、歌舞伎を辞めようと思ったといいます。
ただ、お父さんの8代目松本幸四郎さんが、歌舞伎座で昼の序幕から大きな声を張り上げ、懸命に「車引」の松王丸を演じている姿を、偶然、目にすると、
「歌舞伎を辞める」と自分のわがままを黙って聞いていたお父さんの姿と、舞台上のお父さんの姿が重なって、胸が熱くなったそうで、この出来事がきっかけとなり、もう一度、歌舞伎役者の道を歩もうと思うようになったのだそうです。
中学生になると、歌舞伎以外にも、ラジオドラマ、映画、文学座の舞台に出演するほか、父・8代目松本幸四郎さんの新しい試みだった、歌舞伎と文楽(人形浄瑠璃)の合同公演「日向嶋」での稽古で、「義太夫」(浄瑠璃)という新しい芸を学ぶなど、新しい分野にも積極的に臨んでいたという、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、 1956年、石原裕次郎さん主演の映画「太陽の季節」を見ると、一転、この映画に出てくるような、のびのびと自由に生きている同年代の若者に憧れ、歌舞伎を辞めようと思ったことがあったといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は18歳の時に「東宝」に移籍させられていた
そんな2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、1961年1月、高校3年生(18歳)の時、早稲田大学受験に向けて勉強に励む中、
お父さんの8代目松本幸四郎さんにより、弟の萬之助(2代目中村吉右衛門)さんとともに東宝に移籍させられたそうですが、
(これからの歌舞伎の将来を心配してのことだったそうです)
それから10日後には、お父さんも高麗屋一門を率いて東宝に移籍したといいます。
1960年には、歌舞伎「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の「角力場(すもうば)」で演じた放駒(はなれごま)が、演劇評論家・戸板康二さんにより、高く評価されたという、二代目松本白鸚(にだいめ まつもと はくおう)さんは、 その後、早稲田大学受験に向けて勉強に励む中、1961年には、父・8代目松本幸四郎さんにより、東宝に移籍させられたといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は18歳の時に「東宝」に移籍後は菊田一夫の舞台を中心にジャンルを問わず次々と出演していた
そして、1961年、高校3年生(18歳)の時には、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんら高麗屋一門を招き入れてくれた東宝の演劇担当重役で劇作家・演出家の菊田一夫さんの舞台「野薔薇の城塞」「悲しき玩具」などを中心に、
井上靖さん原作の「蒼き狼」、山本周五郎さん原作の「さぶ」など、ジャンルを問わず、次々と出演したそうです。
1961年1月、父・8代目松本幸四郎さんの意向により、弟の萬之助(2代目中村吉右衛門)さんとともに東宝に移籍すると、その10日後には、これからの歌舞伎の行末を案じた父・8代目松本幸四郎さんも高麗屋一門を率いて東宝に移籍し、再び、親子で舞台に出演することになったという、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、 高麗屋一門を東宝に招いてくれた劇作家の菊田一夫さんの作品を中心に数多くの舞台に出演したといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は22~23歳の時、「心を繋ぐ六ペンス」公演中に足の筋を切るも千秋楽まで舞台に立ち続けていた
そんな中、1965年4月、22歳の時には、大阪・梅田コマ劇場「王様と私」でミュージカル初挑戦で主演を務めると、大ヒットとなっているのですが、
翌年の1966年、2作目となるミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」では、公演中に左足のふくらはぎの筋を切る大ケガに見舞われたといいます。
それでも、松本白鸚さんは、休むことなく、千秋楽まで舞台に立ち続けたといいます。

東宝に移籍後は、「野薔薇の城塞」「悲しき玩具」など、劇作家・菊田一夫さんの作品のほか、「蒼き狼」(井上靖原作)、「さぶ」(山本周五郎原作)など、様々なジャンルのお芝居に、次々と出演していった、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、 1965年には、ミュージカル初挑戦の「王様と私」で「王様」を演じ、大ヒットさせているのですが、翌1966年のミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」では、公演の最中に足の筋を切る大ケガに見舞われるも、千秋楽まで休まず舞台に立ち続けていたといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は26歳の時、「国際ドン・キホーテフェスティバル」から出演オファーが来ていた
また、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、1969年4月、26歳の時には、帝国劇場「ラ・マンチャの男」でミゲル・セルバンテス役とアロンソ・キハーナ役を演じているのですが、
同年9月18日には、世界各地でセルバンテスを演じた俳優が招かれ共演する企画「国際ドン・キホーテフェスティバル」への出演オファーがあったといいます。

1969年「ラ・マンチャの男」より。
ただ、セリフや歌は全て英語でなければならず、もし失敗すれば東宝も恥をかくことになり、東宝内では受けるべきか意見が分かれたそうですが、最終的には、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、このオファーを引き受ける決意をしたといいます。
1965年4月、「王様と私」の王様役でミュージカルデビューすると、翌年の1966年にも、ミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」で主演するなど、立て続けにミュージカルに出演した、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、 1969年4月には、ミュージカル「ラマンチャの男」でミゲル・セルバンテス役とアロンソ・キハーナ役を演じると、同年9月には、世界各地でセルバンテスを演じた俳優を招いて共演させる企画「国際ドン・キホーテフェスティバル」にも出演しています。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は27歳の時、ブロードウェイ・ミュージカルで日本人初の主演を務めていた
こうして、1970年1月下旬に渡米し、舞台稽古と英語の特訓の日々を送り、同年3月2日、ブロードウェイのミュージカルで日本人初の主演を務めると、
千秋楽は5月9日まで60ステージと長丁場だったうえ、ステージでは2時間半、踊り、歌い、英語のセリフを言わなければならず、公演中は心身ともに疲れ果て、ホテルに帰ると倒れ込むように眠る毎日だったそうですが、
1969年4月、ミュージカル「ラ・マンチャの男」でミゲル・セルバンテスとアロンソ・キハーナの2役を演じると、同年9月には、世界各地でセルバンテスを演じた俳優が招かれ共演する企画「国際ドン・キホーテフェスティバル」への出演オファーを受けた、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、 1970年1月下旬に渡米すると、3月2日にはブロードウェイの舞台で日本人初の主演を務めています。
日本人で初めてブロードウェイで主演を務め、大成功を収めたことで、「ラ・マンチャの男」は日本でも大きな反響を呼んだのでした。
(ちなみに、この「ラ・マンチャの男」は、1969年の初公演から2023年4月24日のファイナル公演まで、実に54年間で公演回数は通算1324回を数えており、2代目松本白鸚さんのライフワークとなっています)
1969年9月、ミュージカル「ラ・マンチャの男」でミゲル・セルバンテスを演じた世界中の俳優が招かれて共演する企画「国際ドン・キホーテフェスティバル」への出演オファーを受け、翌1970年、初日の3月2日から千秋楽の5月9日まで、60ステージという長丁場を務めた、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、 このミュージカル「ラ・マンチャの男」は、ベトナム戦争を背景に作られた作品にもかかわらず、 2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんが日本人で初めてブロードウェイで主演を務めたということで、日本でも反響を呼んだといいます。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は36歳の時にNHK大河ドラマ「黄金の日日」で主人公・呂宋助左衛門役を演じて高視聴率を記録していた
そんな松本白鸚さんは、1978年、36歳の時には、NHK大河ドラマ「黄金の日日」で主人公の呂宋助左衛門を演じると、最高視聴率34.4%の大ヒットとなり、お茶の間でもたちまちブレイクを果たしています。

「黄金の日日」より。
1970年、ブロードウェイでの「国際ドン・キホーテ・フェスティバル」で、日本人で初めて主演し、大成功を収めた、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、その後も、歌舞伎、ミュージカル、現代劇、シェークスピア劇と多岐にわ …
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は39歳の時、9代目松本幸四郎を襲名
そして、1981年10月~11月、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)が39歳の時には、親子孫3代の同時襲名と銘打たれた興行が行われ、
- 2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、9代目松本幸四郎
- 父・8代目松本幸四郎さんは、初代松本白鸚
- 長男・3代目松本金太郎さんは、7代目市川染五郎
と、それぞれ襲名しているのですが、
この興行は、前売りで、開始の午前9時に1000人以上(徹夜組を含む)の行列ができ、その後も続々と列をなしたそうで、窓口業務は2時間半も延長したといいます。
1946年、3歳の時に、「助六」の外郎売の伜役で初舞台を踏んで以来、数多くの歌舞伎作品に出演すると、やがては、現代劇、テレビドラマ、映画などでも強烈な存在感を放ち、 特に、ミュージカル「ラ・マンチャの男」は、ニューヨークでの海外公演も好評を博すなど、歌舞伎の枠にとらわれず、幅広く活動している、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さん。 今回は、そんな2代目松本白鸚さんの出演作品(歌舞伎、映画、テレビドラマ、ミュージカル)や受賞歴を画像を交えてご紹介します。
2代目松本白鸚(9代目松本幸四郎)は74歳の時、2代目松本白鸚を襲名
さらに、その37年後の2018年1月~2月、2代目松本白鸚(9代目松本幸四郎)さんが74歳の時には、再び、親子孫3代の同時襲名と銘打たれた興行が行われ、
と、それぞれ襲名しています。
2代目松本白鸚は現在、病気(脳梗塞)の噂も
そんな2代目松本白鸚さんは、2022年、歌舞伎座の公演「十一月吉例顔見世大歌舞伎」の夜の部の口上に、初日の11月7日から11月半ばまで出演していたのですが、体調不良のため、11月19日から休演しています。
そして、12月5日から夜の部の「口上」に出演予定だった歌舞伎座の公演「十二月大歌舞伎」についても、体調不良のため、休演しているのですが(12月26日に復帰)、具体的な病名などは公式には発表されておらず、体調不良の原因は不明です。
また、2023年1月27日も、出演予定だった歌舞伎座の公演「壽 初春大歌舞伎」の第二部「壽恵方曽我」を休演しているのですが、この時は、新型コロナウイルスの濃厚接触者との接触があり、松竹のガイドラインに従っての休演ということで、ご自身の体調には問題ないとのことでした。
ちなみに、2代目松本白鸚さんは、2018年頃から、
- 顔色がすぐれない
- むくんでいる
- 喋り方が妙にゆっくりになった
- 呂律がまわっていない
と、言われ、脳梗塞の疑いが持たれるようになっているのですが、本人からはそのような発表はなく、真偽は不明です。
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