1974年、大学3年生の時、ラジオ番組「ヤングタウンTOKYO 桂三枝の大放送」の前説でデビューすると、1982年、29歳の時には、「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演し、たちまちブレイクした、関根勤(せきね つとむ)さん。
そんな関根勤さんは、幼い頃からテレビでお笑い番組を見るのが大好きで、中学生の頃から様々な芸能人のモノマネをするようになると、高校時代には、友達5人と「目黒五人衆」を結成し、お笑い活動を始めたそうで、
就職活動などで「目黒五人衆」が解散となると、自分のやってきたことがどのくらい通用するのか、腕試しのつもりで、バラエティ番組「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」というコーナーのオーディションを受けると、見事、合格したといいます。
今回は、そんな関根勤さんの幼少期(生い立ち)から大学3年生で芸能界入りするまでをご紹介します。

関根勤のプロフィール
関根勤さんは、1953年8月21日生まれ、
東京都港区の出身、
身長168センチ、
体重57キロ、
胸囲88センチ、
胴回73センチ、
靴のサイズ26センチ、
血液型はA型、
学歴は、
港区立高輪台小学校
⇒港区立高松中学校
⇒東京都立八潮高等学校
⇒日本大学法学部管理行政学科卒業
趣味は、
ゴルフ、映画鑑賞、格闘技観戦、
だそうです。
関根勤の本名の由来は?
ちなみに、「関根勤」は本名だそうですが、
消防士だったお父さんの勤続25周年目にあたる1953年に、関根勤さんが誕生したことから、「勤」と名付けられたそうです。
関根勤の旧芸名「ラビット関根」の由来は?
また、関根勤さんの旧芸名は、「ラビット関根」ですが、六代目桂文枝さんにより名付けられたといいます。
関根勤さんは、デビュー直後、芸名を募集していたそうですが、なかなか良い芸名が集まらなかったそうで、
当時、前説をやっていたラジオ番組「ヤングタウンTOKYO桂三枝の大放送」で、かわいがってもらっていた桂文枝(当時は桂三枝)さんに相談すると、
桂文枝さんは、
じゃあ、僕がつけてあげよう。今年はうさぎ年だし、君の顔はうさぎに似ているからラビット関根はどうや?
と、提案してくれたそうで、
関根勤さんは、面白い名前だなと思い「ラビット関根」にすることにしたのだそうです。
ちなみに、桂文枝さんには、
もしラビットが世間に浸透しなかったら、次の年は辰年だからドラゴン関根で、それがダメならスネーク関根。12年かけて十二支やって芽が出なかったら、諦めて他の職業に行きなさい
とも言われたそうですが、
以降、関根勤さんは、「ラビット関根」で活動を続け、1982年(29歳)、「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演することになった際、これをきっかけに、本名の「関根勤」に戻したそうです。
関根勤は幼い頃、家族から甘やかされて育てられていた
さておき、関根勤さんは、消防士だったお父さんの清さんのもと4人きょうだいの末っ子(兄2人姉1人)として誕生したそうですが、
すぐ上のお兄さんとも7歳も年が離れていたこともあり、家族全員からとても甘やかされて育てられたそうで、お兄さんにも命令口調で話をしていたといいます。
関根勤は小学生の時、テレビを見ることが大好きだった
そんな中、関根勤さんが6歳頃には、(当時、高級電化製品だった)テレビが家に来たそうですが、
幼い関根勤さんにとって、テレビはまさに”魔法の箱”で、最初、「ターザン」や「マイティ・マウス」など動く漫画に魅了されると、やがては、お笑い番組が好きになり、テレビが大好きになったそうです。
(ちょうど関根勤さんが生まれた1953年にNHKのテレビ放送が開始されたそうですが、当時は、お金持ちの家しかテレビを買うことができなかったそうで、子供たちはテレビのある家に集まって見ていたそうです)
また、関根勤さんは、偏食が激しく、小学校の給食が食べられなかったそうですが、担任の先生は厳しい人で、それを許さず、毎日のように放課後、完食するまで居残りさせられていたそうで、
その辛さを清算するように、家では食い入るようにお笑い番組を見たのだそうです。
関根勤は中学2年生の時に西郷輝彦の「星のフラメンコ」のモノマネをクラスメイトに披露し大ウケしていた
そんな関根勤さんは、中学2年生の時、お母さんがファンだった歌手の西郷輝彦さんの「星のフラメンコ」をマネし、クラスメイトに披露すると、みんなゲラゲラと大笑いして、大ウケしたそうで、
(「面白くない!」と突っ込まれるだろうと思っていたところ、大ウケし、とてもうれしかったそうです)
以来、毎日、様々な芸能人のモノマネをするようになったそうです。
関根勤は高校時代、「目黒五人衆」を結成しお笑い活動をしていた
そんな関根勤さんは、高校生の時には、友達5人で「目黒五人衆」というグループを組み、お笑い活動を開始したそうで、
他校の文化祭に飛び入り参加して芸を披露するほか、目黒区勤労福祉会館などの会館を貸し切ってイベントを開催したりと、活動したそうです。
関根勤は大学3年生の時に「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」のオーディションで合格していた
ただ、1974年、関根勤さんが大学3年生(21歳)の時には、他のメンバーが就職活動をすることになり、「目黒五人衆」は活動2年ほどで解散したそうですが、
ちょうどその頃、関根勤さんは、若者から絶大な支持を集めていたバラエティ番組「ぎんざNOW!」に、素人芸人がネタを競い合う「しろうとコメディアン道場」というコーナーがあることを知ったそうで、
自分のやってきたことがどのくらい通用するのか、腕試しのつもりで、「ぎんざNOW!」内のコーナー「しろうとコメディアン道場」のオーディションを受けに行くと、
関根勤さんの後には参加者が誰もいなかったことから、いくらでもできると、クラスメイトを笑わすために中学2年生から大学3年生まで磨き上げてきた、「ジャイアント馬場対フリッツフォン・エリックの3本勝負」「タイガーマスク対アントニオ猪木」をはじめとする、ありとあらゆるネタを45分に渡って披露すると、
プロデューサーに気に入られ、見事、合格したのだそうです。
関根勤は大学3年生の時に「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」の初代チャンピオンに輝いていた
しかも、
あいついっぱいネタを持ってるから勝ち抜き制にしよう
と、元々、週ごとの勝者を決めるだけだった番組が、
大量のネタを持っていた関根勤さんを見込んで、関根勤さんが出演する回からルールを変更し、5週勝ち抜き制でチャンピオンを決める形式に変わったそうで、
関根勤さんが、1974年10月、「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」に出場すると、観客を大爆笑の渦に巻き込み、
その後、あれよあれよと、5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝いたのでした。

「ぎんざNOW!」より。関根勤さん(左)とせんだみつおさん(右)。
関根勤は大学3年生の時に「浅井企画」の社長にスカウトされるも一旦は断っていた
すると、関根勤さんは、チャンピオンになった収録が終わった際、その時の審査員のひとりで、現在の所属事務所「浅井企画」の社長・浅井良二さんに喫茶店に呼ばれ、
どうだ、プロになってみないか?
と、スカウトされたそうですが、
関根勤さんは、高校生の頃から、将来は尊敬するお父さんと同じ消防士になりたいと思っていたほか、自分みたいな、ただのクラスの人気者が、通用する世界じゃないと思い、断ったそうです。
ただ、浅井良二社長から、
と、言われ、すっかり舞い上がったそうで、
大学を卒業するまでの1年間だけ芸能界でやってみようと、芸能界入りしたのだそうです。
「【画像】関根勤の若い頃はラビットでカマキリや小堺一機とコサキン!現在は?」に続く
![]()
大学3年生の時、情報バラエティ番組「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」で初代チャンピオンに輝き、芸能界入りすると、その後は、「ラビット関根」の芸名で活動し、 1982年、29歳の時には、「欽ちゃんのどこまでや …







