1946年、「俳優座」のメンバーとして「文化議員」で初舞台を踏まれると、1954年には、劇団「青年座」を結成し、劇団の中心俳優として活躍された、山岡久乃(やまおか ひさの)さん。1971年に「青年座」退団後は、主にホームドラマに出演され、日本を代表するお母さん女優となられています。
出身は?身長は?本名は?
山岡さんは、1926年8月27日生まれ、
東京府東京市大森区馬込(現・東京都大田区)のご出身、
身長162センチ、
体重49キロ、
学歴は、
宝塚音楽舞踊学校中退、
趣味は、乗馬、手芸、
特技は、スキー、
ちなみに、本名は山岡比佐乃(読み方同じ)です。
宝塚出身だった
山岡さんは、1942年、「宝塚音楽舞踊学校」(現在の宝塚音楽学校)に33期生として入学され、「清澄あきら」という芸名で活動する予定だったのですが、
戦時中だったため、もんぺ姿で畑を耕したり、軍事工場で部品造ったりと、お芝居どころではなかったようで、初舞台を踏まぬまま、1944年、「宝塚音楽舞踊学校」を中途退学されています。
「俳優座」に入座、劇団「青年座」結成
ただ、終戦後は、「俳優座養成所」に入られ、1946年には、「俳優座」に昇格。同年、「文化議員」で初舞台を踏まれると、以降、舞台で活動されています。
また、1953年には、「やっさもっさ」でスクリーンデビューされ、翌年の1954年には、同じ「俳優座」の若手俳優だった、成瀬昌彦さん、東恵美子さん、初井言栄さん、森塚敏さんらとともに、劇団「青年座」を結成。
劇団の中心俳優として活躍される傍ら、映画にも数多く出演されています。
結婚⇒離婚⇒「青年座」退団
そんな山岡さんは、プライベートでは、既婚者であった俳優の小沢栄太郎さんと不倫関係にあったそうですが、
1950年代初頭に関係を清算されると、1956年、同じ「青年座」創立メンバーだった、俳優の森塚敏さんと結婚。
前列中央が山岡さん。後列右から2人目が森塚敏さん。
ただ、1971年には離婚され、同年、「青年座」も退団。
その後は、活動の場を、テレビドラマに移されています。
ちなみに、山岡さんは、退団(離婚)の前年の1970年に、テレビドラマ「ありがとう」で、水前寺清子さんと母娘役で出演し、視聴率50%という大成功を収められているので、
そのことも、「青年座」を退団して、テレビドラマに移るきっかけになったのかもしれません。
「ありがとう」より。水前寺清子さんと山岡さん。
以降、山岡さんは、
1974年「おんなの家」シリーズ
1976年「三男三女婿一匹」シリーズ
1981年「野々村病院物語」
1990年「渡る世間は鬼ばかり」シリーズ
ほか、数多くのホームドラマに出演し、白い割烹着が似合う、日本を代表する、お母さん女優となられています。
「野々村病院物語」より。(左から)山岡さん、
宇津井健さん、夏目雅子さん。
死因は?
しかし、1997年2月に体調に異変を感じ、翌月3月、「総胆管結石」の手術を受けられると、その際、「ガン」が発覚。
1998年12月には、所属事務所を通じて、
70年突っ走ってきて、そろそろ、ゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に、『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。
ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。
もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください。
と、「胆管がん」を患っていることを発表されると、
しばらくの間、経過は良好だったのですが、2ヶ月後の1999年2月14日、容態が急変。翌日の2月15日、「胆管がん」による「心不全」のため、72歳で他界されたのでした。
橋田壽賀子と確執?
ところで、山岡さんを「橋田壽賀子」で、多くの方が検索されているようです。
というのも、山岡さんは、脚本家・橋田壽賀子さんの作品に数多く出演されていることから、「橋田ファミリーの一員」とみなされていたのですが、
長きに渡り演じられていた「渡る世間は鬼ばかり」の主役・岡倉節子役を、1998年10月から始まる第4シリースでは降板。
「渡る世間は鬼ばかり」より。(左から)森光子さん、
長山藍子さん、藤岡琢也さん、中田喜子さん、山岡さん。
降板理由を詳しく知らされなかった橋田さんは、あわてて、山岡さんに説得を試みるも聞き入れてもらえず、その後、山岡さんが病気であることを知るも、病状を詳しく知らされなかったそうで、
マスコミの取材に対し、
病気であることを知って、お見舞いに行こうとしたら事務所から断られた。山岡さんは私のことがよっぽど嫌いなのだろう。
と、答えられたことから、山岡さんと橋田さんの確執が取り沙汰されたのでした。
ただ、当時、山岡さんは、ガンで闘病生活を送っていることを、誰にも知られたくなかったというのが真相のようで、決して、橋田さんとの確執があったわけではなかったようです。
養女がいた
ちなみに、山岡さんは、1971年に森塚敏さんと離婚後、亡くなるまで独身で、お子さんはいらっしゃらないのですが、山岡さんの葬儀で喪主を務められた女性が、養女であることが判明。
この養女は、山岡泰子さんといい、山岡さんの末の妹の娘だそうで、
泰子さんの話によると、山岡さんが亡くなる2年前の1997年、山岡さんから電話で、養子になってほしいと打診されたとのこと。
泰子さんは、山岡さんに頼まれて遺品整理をしたり、死の間際には、死亡届を手渡され市役所に出して欲しいと頼まれていたそうです。
さて、いかがでしたでしょうか?
ガンを告知されても冷静に受け止め、最期の時まで毅然と振る舞われていたと言われている山岡さん。
信条は、
「自分の始末は自分で」
だったそうで、
「日本のお母さん」として多くの人に慕われた山岡さんは、古き良き日本のお母さんそのままの方だったのですね。
ご冥福をお祈り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=X7rPeF2E5Po