唯一無二の存在感で数々の女優賞を受賞されてきた、樹木希林(きき きりん)さんですが、実は、若い頃には、自分の芸名「悠木千帆」をオークションで売却していたといいます。
年齢は?出身は?身長は?本名は?旧芸名は?
樹木さんは、1943年1月15日生まれ、
東京市神田区(現・東京都千代田区)のご出身、
身長160センチ、
血液型はA型、
本名は、「内田 啓子(うちだ けいこ)」(旧姓:中谷(なかたに))
旧芸名は、「悠木千帆(ゆうき ちほ)」、
学歴は、
千代田女学園卒業、
趣味は、
お経、車の運転、
特技は、和裁、
ちなみに、
お父さんは、琵琶(びわ)奏者の中谷襄水さん、
夫は、ロック歌手の内田裕也さん、
娘は、エッセイストの内田也哉子さん、
娘婿は、俳優の本木雅弘さんです。
高校時代は薬剤師を目指すも・・・文学座付属演劇研究所入り
樹木さんは、高校生の時、薬剤師を目指して受験勉強をしていたのですが、お父さんの琵琶仲間が北海道の夕張で鉄道員をしていたことから、お父さんについて遊びに行くと、
雪が積もった炭鉱のボタ山を地元の子どもが板に乗って滑り降りており、それを真似して滑ったところ、足の骨を折ってしまい、受験はおろか、卒業式にも出られなくなってしまったそうです。
高校生の頃の樹木さん。
そんな樹木さんは、同級生が希望に燃えて新しい道に踏み出す中、何の目標もなく家で過ごしていることに疎外感を感じ、毎日通える場所を探していると、新聞で「新劇の3劇団が研究生募集」の記事を見つけたそうで、これまでお芝居と言えば学芸会しか経験はなかったものの、とりあえず「文芸座」を受けに行くと、見事合格。
こうして、樹木さんは、1961年、「文学座付属演劇研究所」の1期生となると、「悠木千帆(ゆうき ちほ)」の芸名で女優活動をスタートしたのでした。
(試験には美男美女が大勢来ていて、受かる自信はなかったそうですが、耳がよく、相手のセリフをよく聞いていたことが、合格の決め手になったと、後で知ったそうです。)
30歳で老人役を演じていた
樹木さんの正確なデビュー作は不明ですが、1964年、テレビドラマ「七人の孫」で、東北弁をまくし立てるお手伝いさんの役を演じると、そのふてぶてしい演技で、一躍、お茶の間の人気者となり、以降、個性派女優として、数多くの映画、テレビドラマ、舞台に出演されています。
「七人の孫」より。(左から)森繁久彌さん、松山英太郎さん、樹木さん(当時は悠木千帆)。
そして、1974年には、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」で、30歳の若さでありながら、老人の役を演じ、
(樹木さんは、主人公・貫太郎(小林亜星さん)の母親役だったのですが、実際には、樹木さんの方が小林さんより10歳以上も年下だったそうです)
「寺内貫太郎一家」より。(左から)梶芽衣子さん、加藤治子さん、西城秀樹さん、小林亜星さん、樹木さん(当時は悠木千帆)、浅田美代子さん。
1977年、1978年には、ホームドラマ「ムー」、続編「ムー一族」で、足袋屋「うさぎや」のお手伝いさん役を演じると、共演者の郷ひろみさんとのコミカルな掛け合いが人気を博し、
当時の郷ひろみさんと樹木さん。
郷さんとのデュエット曲、「お化けのロック」(1977)と「林檎殺人事件」(1978)が大ヒットを記録しています。
自分の芸名「悠木千帆」をオークションで売却していた
そんな樹木さんは、1977年、「わが家の友だち10チャンネル 徹子のナマナマ10時間半」というテレビの特番に出演されているのですが、
同番組が企画したオークション企画に、出品するものが何もなかったことから、なんと、自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけられています。(特に思い入れがなかったとの理由で)
ちなみに、芸名は、2万2000円で世田谷の飲食店店主に売却されたそうで、その後、樹木さんは、本名の「内田啓子」で芸能活動をしようとしたそうですが、
ご主人の内田裕也さん(すでに別居中)に、
本名の「内田」を使うのはやめてくれ~
と、言われ、仕方なく辞書をひいて適当な文字を拾ったそうで、それが、後の「樹木希林」なのだそうです。
(その後、「悠木千帆」という名は、落札した飲食店店主が、2004年に無償で女優の山田和葉さんに譲り渡されたそうで、その後、山田さんは「(2代目)悠木千帆」として活動されているそうです。)