評論家からの評価は高いながら、興行的には失敗続きだった、深作欣二(ふかさく きんじ)さんですが、ようやく、山口組の代理戦争を描いた映画「日本暴力団・組長」がヒットすると、その後も、ヤクザ映画で才能を開花し、ついに、あの「仁義なき戦い」と出会います。
「深作欣二の昔は?富司純子の推薦も中原早苗との交際で脚本進まず?」からの続き
菅原文太を主演に「人斬り与太」シリーズ製作
実は、深作さんは、かねてから、ヤクザ映画について、
綺麗事に過ぎない偽物の世界
と、考えていたことから、
「東映」で仕事をする限り、避けては通れないヤクザ映画の描き方について苦心されていたのですが、
ちょうど同じ頃、「東映」も、映画産業の斜陽化による映画人口の激減に加え、長らく大ヒットを飛ばしていた「任侠路線」が頭打ちとなり、それまでの鶴田浩二さん、高倉健さんに続くスターとして、菅原文太さんを押し出すも、決定的なヒットを出せず、伸び悩んでいたところで、
そんな中、深作さんが、テレビでずっと生中継をしていた連合赤軍の「浅間山荘事件」を見て、
映画の主人公は善じゃなくて良いんだ。悪でもなんでも。人間なら何でも良いんだ。
と、衝撃を受け、
(「浅間山荘事件」とは、1972年2月19日~2月28日、連合赤軍が人質をとって立てこもった事件)
薄汚れた売春街で育ち、チンピラの手下となるも、シャバと感化院(少年院)を行き来するうちに、街の愚連隊の番長となった、野獣のように凶暴極まりない男を主人公に、映画を製作することを思いつくと、
「東映」も、その主人公に菅原さんを据えることで同意。「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が製作されます。(どちらも1972年公開)
「人斬り与太 狂犬三兄弟」より。菅原文太さん。
「仁義なき戦い」で笠原和夫と再タッグ
そして、1972年、深作さんは、「東映」から「仁義なき戦い」のシナリオを受けとると、脚本がまさに深作さんの望んでいた内容で、
東京から、息を切らせて、
これはぜひ俺にやらせてくれ! こんなすばらしい脚本はないよ
と、京都にいる東映のプロデューサー・日下部五朗さんのもとへ駆けつけます。
(完成したシナリオを送って、わずか2日後に、深作さんは京都にやってきたそうです)
ただ、このシナリオ、実は、深作さんの友人で、過去に映画「顔役」でのタッグで決別した、笠原和夫さんによって書かれたもので、
以来、深作さんとは絶対に二度と組まないと心に決めていた笠原さんは、
あいつはシナリオをいじりまくる
と、深作さんと一緒に仕事をすることに猛反発。
しかし、最終的には、深作さんが、一切、脚本に手を入れないことを約束し、二人は再びタッグを組むこととなったのでした。
「仁義なき戦い」は元組長の獄中手記を引用したリアルやくざ映画
ちなみに、この「仁義なき戦い」、実は、作家の飯干晃一さんが、元組長の美能幸三が克明に描写していた獄中手記を元に、実際に起きた「広島ヤクザ戦争」を、週刊誌で連載しようとしていたところに、
たまたま、別件で飯干さんの自宅へ寄った日下部さんと笠原さんが、美能幸三元組長の獄中手記を見せられ、手記を一読した日下部さんが、興奮を抑えきれず、連載のタイトルを尋ねたところ、「仁義なき戦い」だったそうで、
後に、日下部さんは、
これは画期的な題材になると思ったし、笠原さんの脚本も生涯作品で突出したレベルだった。
これにサク(深作)さんが『ぜひやりたい』と言い、菅原文太も『これは俺しかいない』と手をあげてくれた。
映画は、そこまで入れ込んでくれる人じゃないと成功しませんから。
と、詳しい経緯は不明ですが、最終的には、日下部さんがこの「仁義なき戦い」の映画化の権利を取り付け、笠原さんが脚本を担当することになったのでした。
(途中段階では、深作さん以外の監督や、主演も渡哲也さんや松方弘樹さんの名前が候補に上がったそうですが、日下部さんは、当初の予定通り、監督を深作さんに、主演俳優を菅原さんに決定されたのでした)
「京都撮影所」が反発するも・・・
そして、「東映」も、リアリティを追求した「実録路線」風の演出の方向で、深作さんを監督、仲沢半次郎さんをカメラマンとする「東映東京組」を「京都撮影所」に迎えて製作しようとしたのですが・・・
(深作さんは、これまで大きなヒット作はなかったものの、テンポの良い演出、暴力描写に定評があったため)
京都撮影所はこれに猛反発し、監督には、「京都撮影所」の工藤栄一監督を推挙。
ただ、もうひとりのプロデューサー・俊藤浩滋さんが、深作さんでなければ映画は制作しないと宣言したことで、「京都撮影所」側は、せめてカメラだけは京都の人間でと要求し、ベテランカメラマンの吉田貞次さんで撮影することになったのでした。
(そのため、仲沢さんは撮影に参加されませんでした)
こうして、紆余曲折を経て、ようやく京都で製作がスタートすると、撮影は、朝から深夜まで不眠不休で行われたのでした。
「深作欣二の仁義なき戦い撮影秘話!自らカメラ?ピラニア軍団とは?」に続く