「日本侠客伝シリーズ」「網走番外地シリーズ」「昭和残侠伝シリーズ」などの大ヒットで、自身のブレイクはもちろん、「東映」の繁栄にも大きく貢献した、高倉健(たかくら けん)さんですが、やがて、任侠映画の人気が落ちてくると、「東映」からは冷遇されるようになります。
「高倉健が若い頃はひたすら筋トレし任侠映画でブレイク!」からの続き
「高倉プロ」設立を反故にされたうえ冷遇されるようになる
「日本侠客伝シリーズ」「網走番外地シリーズ」「昭和残侠伝シリーズ」で大ブレイクした高倉さんですが、ワンパターンで量産される任侠映画での、同じような役柄を演じ続けることに、心身ともに疲れ果てていたことから、
1970年には、
ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい
と、当時の「東映」の社長・大川博氏に「高倉プロ」を設立することを了承してもらっていたのですが、
翌年の1971年に大川氏が死去し、プロデューサーの岡田茂氏が社長になると、
特例は認めない
と、「高倉プロ」の設立を反故にされます。
また、長きに渡り大ヒットを飛ばしていた任侠路線ブームが去ったことで、高倉さんは、次第に、「東映」から冷遇されるようになっていきます。
岡田茂に冷遇され「東映」退社を決意
さらに、1972年11月には、マスコミが、海外旅行に行った高倉さんを、
高倉健 蒸発
仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た
と、こぞって書き立てたそうで、
高倉さんは、帰国後、
僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない
と、反論するのですが、
1973年に、実録路線映画「仁義なき戦い」(深作欣二監督)がヒットすると、
岡田氏には、
もう鶴田浩二や高倉健の時代やない。東映は実録や。もう任侠映画は作らんで
と、あからさまに冷遇されたそうで、
この言葉で、ついに高倉さんは「東映」を退社することを決意されたのでした。
ちなみに、ほぼ同時期に、「東映」から専属契約を解除された佐藤純彌監督は、
もともと東映は京都が強くて、東京は「お前らを食わせてやっている」と見下されていた。そこに健さんが出てきたことは、東京の撮影所の大きな励みになった
と、高倉さんを思いやられているのですが、
「東映」(岡田氏)にとっては、ヒットを出せなくなった高倉さんは、うるさいだけのお荷物にしか見れなかったのかもしれません。
キャバレーで歌ったことも
こうして、1973年以降、仕事が激減した高倉さんですが、
実は、キャバレー王と呼ばれていた福富太郎氏から、
うちのキャバレーで〈網走番外地〉を1曲歌ってくれたら、1000万円以上出す
と、誘われたそうで、
困っていたから、その金額につられちゃいまして
と、引き受け、ステージに上がったことがあったそうです。
ただ、客はというと、ぐでんぐでんの酔っぱらいだらけで、「健さん!」との掛け声がうるさく、歌どころではなかったそうで、その日はなんとかやり終えたものの、二度とやらないと、心に誓ったのだそうです。
(おまけに、ギャラも、高倉さんと福富氏との間に入った人間に半分持って行かれてしまったそうです)
「八甲田山」「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」で再ブレイク
さて、高倉さんは、1976年に「東映」を退社すると、フリーになり、同年、フリー第1作目となる映画「君よ憤怒の河を渉れ」に出演するのですが、作品的にも興行的にも散々で、大失敗に終わってしまいます。
ただ、続く1977年、青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した「八甲田雪中行軍遭難事件」(1902年)を題材に、極限状態での組織と人間のあり方を描いた映画「八甲田山」で、主人公の雪中行軍隊の徳島大尉役を演じると、明治の軍人のストイシズムを自然体で表現し、映画はヒット。
「八甲田山」より。
また、その後、「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」では、出所したばかりの元服役囚を演じ、女性ファンも獲得すると、
「幸福の黄色いハンカチ」より。(左から)高倉さん、桃井かおりさん、武田鉄矢さん。
この2作品の演技で、「キネマ旬報賞」「毎日映画コンクール」「ブルーリボン賞」「第1回日本アカデミー賞」の主演男優賞を独占し、見事、任俠路線のアウトローからの脱皮に成功。
同年、倉本聰さん脚本のテレビドラマ「あにき」では、下町の律儀な鳶の頭・神山栄次役を演じ、お茶の間の人気を博すと、以降、数多くのテレビドラマや映画に出演し、名実ともに国民的人気俳優としての地位を不動のものにされたのでした。
「あにき」より。