高校時代、「西武線のマドンナ」と噂になるほど、その美少女ぶりが有名だった、佐久間良子(さくま よしこ)さんは、その噂を聞きつけて連日スカウトに来た「東映」に応じ、「東映」に入社して映画界入りされると、次々とヒロインに起用されます。
「佐久間良子はデビュー前の高校時代から西武線のマドンナと有名だった!」からの続き
「東映」に入社すると「俳優養成所」に
「東映」撮影所にスカウトされると、当初は女優に興味がなかったものの、両親が猛反対したことから、かえって反骨心が芽生え、映画界入りを決意された佐久間さんは、形式的に、「東映ニューフェイス」の第4期試験を受験されると(水着審査は拒否されたそうです)、補欠で合格。
高校卒業後の1957年、「東映」に入社されると、「東映」の研究生になり、演技、音楽、ダンスを習得するため、半年間、「俳優養成所」に通われたそうですが、
(同期には、山城新伍さん、室田日出男さん、作詞家で作家の山口洋子さんなどがいたそうです)
同期のメンバーはみんな仲が良く、とても楽しかったそうで、特に、山城さんが白タイツを履いて脚を上げてレッスンに励むクラシックバレエの授業や、浴衣を着たみんなが、まるで旅館で酔っ払ったおじさんのように、はだけた姿で踊る舞踊の時間は、本当に楽しかったそうです。
日本初の長編アニメ「白蛇伝」のヒロインのモデルに
そんな中、佐久間さんは、日本初の長編アニメ映画「白蛇伝」のヒロインの「モデル」として、制作に参加されているのですが、
当時は、「ライブアクション」という方式で、アニメの脚本通りに俳優が動いて撮影し、その映像をアニメーターが見て、1カットずつ絵コンテを描き直していたそうで、佐久間さんの映像担当だった烏丸軍雪さんは、なんと、2年間も佐久間さんの動きを見続けられたそうですが、
(鳥丸さんは後に、ダイアナ妃のドレスを手がけるなど、ファッションデザイナーとして活躍されました)
佐久間さんは、
「白蛇伝」は今や世界から評価されている日本アニメのスタート地点にある作品。携わったスタッフの方々はアニメ界の草創期を支え、スタジオジブリの宮﨑駿さんもこの作品に出会ってアニメ界を志したそうです。
ちょっと大げさですけど、私たちの動きが日本アニメの原型なのかな、と思うと少し愉快ですよね
と、語っておられました。
「白娘」を演じられた当時の佐久間さんと、映画「白蛇伝」。
次々と男性スターのヒロインに起用される
そんな佐久間さんは、1958年、「美しき姉妹の物語・悶える早春」の端役で映画デビューすると、同年、映画「台風息子 修学旅行の巻」「台風息子 最高殊勲の巻」(2部作)では、早くも、主演・江原真二郎さんの相手役に抜擢。
「台風息子」より。右端が佐久間さん。
以降、佐久間さんは、
「三代目魚河岸の石松」
「デン助の陽気な靴みがき」
「希望の乙女」
「おけさ姉妹」
「ひばりの花形探偵合戦」
「空中サーカス・嵐呼ぶ猛獣」
「地獄の午前二時」
「一丁目一番地 おじいちゃんは日本晴れ」
「夜霧の南京街」
「母と拳銃」
「一丁目一番地 町内ニコニコ会議」
「デン助の陽気な拳斗王」
「デン助の陽気な靴みがき」より。(左から)佐久間さん、松島トモ子さん、大宮敏充さん。
と、デビューされたこの年に、立て続けに、ほとんど準主役級で出演されると、
翌年の1959年には、
「旗本退屈男・謎の南蛮太鼓」
「旋風家族」
「無法街の野郎ども」
「黒い指の男」
「警視庁物語・顔のない女」
「黒い指の男」より。佐久間さんと高倉健さん。
と、5本をかけもちして出演されたのでした。
(この頃、同期の山城新伍さんや室田日出男さんは全くの端役でしかなかったそうで、多数の映画に起用されていた佐久間さんは、「東映東京撮影所」のホープとして期待されていたそうですが、「東映京都撮影所」に比べ、「東映東京撮影所」には、若手スター女優が乏しかったという事情もあったようです)
映画「母子草」での演技が評価される
こうして、立て続けに数多くの映画でヒロインに起用された佐久間さんですが、あくまで、主役である男性スターの添え物的な存在でしかなかったそうです。
それでも、1959年には、映画「母子草」で、精神的に不安定な少女を瑞々(みずみず)しい感性で演じ切ると、この演技が評価され、新境地を開拓されたのでした。
「佐久間良子は昔「東映」初の女性単独主演に抜擢されていた!」に続く
「母子草」より。右端が佐久間さん。