1987年には、阪神の新監督に就任した村山実さんからヘッド兼打撃コーチ就任を依頼されるも、過去(1978年)に、夜中に呼び出されてトレードを通告された遺恨から、古巣・阪神への復帰を断ったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、1989年にダイエー(現・ソフトバンク)から監督要請されると、恩師・根本陸夫さんの後押しもあり、これを引き受けます。
「田淵幸一は広岡達朗西武監督の後任監督として噂されていた!」からの続き
ダイエー(現・ソフトバンク)から監督要請を受けていた
1989年の夏、田淵さんが、大リーグ取材から帰国すると、その直後、ダイエー(現・ソフトバンク)の球団幹部から電話がかかってきて、会ってほしい、と言われたそうで、
それが、監督要請であると察しがついていた田淵さんは、
まだ勉強したいんで・・・
と、断ったそうですが、
話だけでも、と言われたことから、指定された東京・紀尾井町のホテルニューオータニに出向いたそうです。
すると、田淵さんは、てっきり、ティーラウンジで話すのかと思っていたところ、部屋に通されたそうで、中には、ダイエーの中内功オーナーがいて、いきなり、グイッと手を握られたそうで、話を聞くだけでは済まなくなったのだそうです。
恩人・根本陸夫に相談しダイエーの監督を引き受ける決意をする
そこで、田淵さんは、西武の管理部長の根本陸夫さんに相談したそうですが、
(田淵さんにとって根本さんは法政大学の先輩、かつ、西武時代の監督で、阪神からトレードで放出された際には拾ってくれた恩人でした)
根本さんからは、
呼ばれた時が花。行った方がいい
と、言われたそうで、ダイエーの監督を引き受ける決意をしたのだそうです。
ダイエーには「ファンを呼べる監督」が必要だった
ちなみに、ダイエーは、1988年に、南海から「ホークス」を買収し、九州・福岡でスタートを切っていたのですが、
当地の人たちにとっては、(西武に買収され、福岡から埼玉の所沢市に移転した)「旧西鉄ライオンズ」への思いが、依然として強かったそうで、ダイエーには「ファンを呼べる監督」がどうしても必要となり、田淵さんに白羽の矢が立ったのだそうです。
(1989年5月、ダイエーの杉浦忠監督が内々に「辞意」を球団に伝え、後任として田淵さんを推薦したそうで、杉浦監督は自らその交渉役も務めたのだそうです)
背番号「81」は前監督・杉浦忠の志を継ぐためだった
こうして、1989年10月19日、田淵さんは、契約金1億円、年俸1800万円の3年契約でダイエーの監督に就任したのですが、
背番号は、旧友の、中日・星野仙一監督が「77」、広島・山本浩二監督が「88」だったことから、2人を超える「99」かと思われたのですが、「81」だったそうで、
田淵さんは、その理由について、
杉浦さんの志を継いで81にしたんだ。99も考えたよ。でも、なんだかキューキュー(窮々)しそうだから、やめた
と、語っています。
「田淵幸一がダイエー監督就任当初はトレード要員もいなかった!」に続く