入団3年目の1976年は、打率3割2分5厘、27本塁打、83打点でベストナイン、入団4年目の1977年は、打率3割3分1厘、23本塁打、69打点、入団5年目の1978年は、打率3割1分8厘、32本塁打、102打点と、3年連続で素晴らしい成績を残した、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、プロ入り6年目の1979年は、前年オフに田淵幸一選手が西武にトレードに出されたことで、ついに4番打者に起用されることになったそうですが、4番打者としての重責をしっかりと受け止め、準備したといいます。

「掛布雅之が頭部死球で打率を落とすと遠井吾郎打撃コーチに批判が殺到していた!」からの続き

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田淵幸一が西武へトレードとなったことで4番に起用され重責を感じていた

阪神入団5年目の1978年も、打率3割1分8厘、32本塁打、102打点と素晴らしい成績を残した掛布さんですが、1978年シーズン終了後には、長らく阪神で4番を張ってきた田淵幸一選手が西武にトレードとなったことで、3番だった掛布さんは4番に起用されることになり、

これまで、田淵さんが4番にいたことで気楽に打つことができていたのが、「ポスト田淵」の期待を背負うことになり、重責を感じるようになったといいます。

飛距離を求め、フォームを改造していた

それでも、4番打者としての覚悟を決めた掛布さんは、プロ入り6年目の1979年シーズンは、

この体で、もっと本塁打を打つにはバットを大きく動かしてボールを強くたたくのが理想的なんじゃないかと

と、飛距離を求めて、真っ直ぐに立てたバットのグリップを顔の真横に置いて、弓を引くようにテイクバックする打撃フォームに変えたそうです。

打席に入る時のルーティーンの重要性も意識するようになっていた

また、掛布さんは、打席に入る時のルーティーンも重要視するようになったそうで、

打席に入ると、まず足場をスパイクの歯で削り、左の軸足を固め、次に、バットの先でベースをたたいて、内角、外角、真ん中の順番でミートポイントを確認し、右手でバットをぐるりと前へ1回転させたら、両肩を結ぶ線が投手に向かって真っすぐになるように両足のスタンスを整え、鼻で大きく吸い込んだ息を口から吐き出して構えに入る、ということを打席でのルーティーンにしたのだそうです。

(呼吸法は田淵選手から教わったそうですが、これをすると肩の力がスーッと抜けたそうです)

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田淵幸一から「途中で縦じまのユニホームを脱ぐような野球はするな」と言われ、4番打者としての覚悟があるのか自問していた

ちなみに、田淵選手は、11月15日深夜に阪神球団からトレード通告を受けているのですが、掛布さんは、翌16日、田淵さんに電話で、

カケよ、お前はオレや江夏(豊)のように、途中で縦じまのユニホームを脱ぐような野球はするな。約束だぞ

と、言葉をかけられたそうで、

(後に、田淵さんは、掛布さんに電話した理由について、「オレの次は掛布が出される。そう思うと電話をかけずにはいられなかった」と語っています)

人気球団がゆえに、まばゆいスポットライトを浴びる一方、多くのバッシングも受けてきた田淵さんの姿を間近で見てきた掛布さんは、

田淵さんはいつもチームの壁になって、どんな批判も正面から受け止めた。その覚悟が俺にあるのか

と、4番打者としての覚悟があるのか、自問したそうです。

(田淵選手は、1968年、法政大学からドラフト1位で阪神に入団すると、いきなり入団1年目に22本塁打を放って新人王に輝くほか、7年目の1975年には、43本塁打を放ち、巨人・王貞治選手の14年連続本塁打王を阻止して初のタイトルを獲得するなど、素晴らしい活躍をしました)

「掛布雅之は入団6年目48本塁打(3割2分7厘)で本塁打王に輝いていた!」に続く

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