1994年には、プロ野球史上初となる、最終試合(10月8日)が優勝決定戦となる中日戦で、見事、勝利して、リーグ優勝を果たすほか、1996年には、11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝(メークドラマ)するなど、監督としても素晴らしい成績を残した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さん。
今回は、そんな長嶋茂雄さんの若い頃(監督時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】長嶋茂雄の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
長嶋茂雄の30代の頃
38歳の時に読売ジャイアンツの監督に就任
1974年10月14日、38歳で現役を引退した長嶋茂雄さんは、翌月の1974年11月21日には、読売ジャイアンツの監督に就任しているのですが、
野球は本来、上から管理されてやるものではなく、選手が自由にのびのびとやるもの
との考えから、
「クリーンベースボール」というキャッチフレーズを掲げます。
というのも、前監督の川上哲治さんは、徹底した管理野球体制で、バント失敗などのミスには罰金を課していたのですが、長嶋茂雄さんは、これを廃止し、従来の減点主義から良いプレーを評価して年俸に反映する加点主義に変えたのでした。
(選手にとってはうれしいシステム変更のように思えますが、V9戦士たちには、急激な変更と長嶋茂雄さんの独特の采配に戸惑いもあったそうです)
1974年11月21日、現役を引退した直後に巨人軍の監督に就任するも、監督1年目の1975年は、球団史上初の最下位という結果に終わった、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、チームの柱だった長嶋さん自身が抜けて戦力ダウ …
また、長嶋茂雄さんは、川上哲治さん時代のコーチ陣を一掃するほか、川上哲治さんからのアドバイスをすべて蹴っていたそうで、
長嶋茂雄さんは、
川上さんみたいな暑苦しい野球はしたくない
と、言っていたといいます。
巨人監督就任1年目の成績が散々だったことから、ファンやマスコミに「名選手、名監督にあらず」と口々に言われ、現役時代にはあり得なかった批判の嵐にさらされた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、実は、確執があったという前 …
巨人軍監督に就任すると、川上哲治前監督の意向を完全に無視し、独自の「クリーン・ベースボール」なる政策を打ち出した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、投手起用においても、若手有望株だった新浦寿夫投手をどれほど打たれようと …
39歳の時は最下位に終わっていた
ただ、1年目の1975年(39歳)は、球団創設以来初の最下位に終わってしまいます。
(同年9月には、球団史上ワースト(2017年に更新)となる11連敗も)
1973年、シーズン終了間際の10月9日の夜、川上哲治監督から、現役を引退して監督になるよう勧告されるも、頼み込んでもう1年現役を続行した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1974年10月14日には、ついに現役を引退 …
そこで、長嶋茂雄さんは、1975年のオフには、「クリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」というキャッチフレーズを掲げて、勝つ野球へとシフトチェンジをし、
日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲選手を、高橋一三投手、富田勝選手との交換で獲得するほか、トレードで太平洋クラブ・ライオンズから先発も抑えもできる加藤初投手を獲得。
また、外野の名手である高田繁選手を内野の三塁手に、ジョンソン選手を本来の二塁手に移動するなど、チームの強化を図ったのでした。
長嶋茂雄の40代の頃
40歳の時にリーグ優勝を果たしていた
それが功を奏したのか、長嶋茂雄さんは、2年目の1976年、40歳の時には、前年の最下位から一転、リーグ優勝を果たしています。
(日本シリーズでは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗退)
41歳の時にはV2を達成
そして、3年目の1977年、41歳の時には、シーズン途中で、ヤクルトから、「巨人キラー」と言われていた浅野啓司投手を(倉田誠投手としての交換で)獲得するなどし、2位に15ゲーム差をつける圧勝でV2を達成しています。
1977年、V2を達成し、胴上げされる長嶋茂雄さん
42歳の時に2位に転落していた
しかし、4年目の1978年は、シーズン当初から低迷が続き、8月後半には、一旦、首位に立つも、最終的には、ヤクルトに2ゲーム差で敗れ、2位に転落しています。
43歳の時は5位に終わっていた
5年目の1979年も、巨人は低迷し、7月には勝負がついてしまい、5位に終わってしまいます。
ちなみに、この年のオフに退団した張本勲さんは、新聞記者に低迷の原因を問われると、
言いたいことはたくさんある。これだけは断言できる。チームは間違えた方向に向かっている
と、答えているのですが、
張本勲さんは、著書「プロフェッショナル真の仕事とは何か」で、
立つ鳥跡を濁さず、別れた女の悪口など言わないつもりでいたが、コーチ陣の保身が目立った。長嶋監督を助けようとはせず、多くのコーチがフロントにゴマをすって、地位を守ろうとしていた。
巨人のコーチなら給料も高いし、マスコミにも多く取り上げられておいしい思いもできる。長嶋監督はナンバー2を置かなかったから、コーチ陣を一つにまとめ上げる人もいなかった。
私が巨人のユニフォームを着た最後の年は5位に沈み、長嶋監督の次は王だろう。王にすり寄る連中も出てきた。私が間違った方向と言ったのは、そういったチーム内の雰囲気のことだった
と、綴っています。
川上哲治前監督の緻密な「管理野球」を一掃し、ホームランで観客を沸かせるような野球を目指して、補強と育成に積極的に取り組んだという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1976年、1977年には、2年連続リーグ優勝を果たす …
1976年と1977年にはリーグ優勝を果たすも、日本一にはなれず、1978年と1979年には再び低迷し、苦悩していたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、チームが強くなるためなら、監督の自分はどれほど憎まれてもいい …
44歳の時に川上哲治に監督を解任されていた?
そして、6年目の1980年、44歳の時には、栄光のV9を懐かしむ野球ファンやマスコミの間で、前監督の川上哲治さんの待望論が徐々に出るようになっているのですが、
実際、川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋茂雄さんのチーム作りに干渉し始めたほか、長嶋茂雄さんが監督に就任する際、自らコーチに起用した淡河弘さんが解任され、
(原辰徳選手の家に長嶋茂雄さんの密書を持っていったという理由で)
1975年~1979年の間には、淡河弘さんのほかにも10人ものコーチがフロント主導で解任されたといいます。
そんな「長嶋茂雄降ろし」の風が吹き荒れる中、1980年10月21日、とうとう、長嶋茂雄さんは、監督を解任されたのでした。(表向きは辞任)
1979年秋、若手を徹底的に鍛えようと、伊東スタジアムで熾烈を極めた猛特訓(地獄の伊東キャンプ)を行った、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、次第に、V9時代の川上哲治前監督を懐かしむ声が高まり、1980年にはついに …
45歳~56歳の時にはタレント、評論家、解説者として活動していた
ただ、監督退任後、1981年(45歳)から、長嶋茂雄さんは、野球だけではなく、「スポーツ全般の伝道者」として活動し、世界を駆け巡るほか、スポーツ番組だけではなく、バラエティ番組にも出演するようになると、独特のキャラクターがウケて、タレント的な人気を博します。
また、1982年1月には、報知新聞社の客員評論家に就任すると、日本テレビ系列でもプロ野球中継の解説者として活動しています。
(この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったそうですが、巨人への思いから、それらすべてを断っていたといいます)
長嶋茂雄の50代の頃
56歳の時に読売ジャイアンツの監督に復帰
そして、長嶋茂雄さんは、1992年10月12日、56歳の時には、ついに、読売ジャイアンツの監督に復帰。
ただ、1年目の1993年は、打線は低迷し、チーム打率は12球団最下位という成績で、3位に終わってしまいます。
1975年に発足して以来、ファンの絶大な支持を得て、「永久政権」とまで言われるも、6年で川上哲治前監督に監督を解任させられた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、その後、12年間の「浪人生活」を経て、読売新聞社社長( …
58歳の時に中日と同率最終戦に勝利しリーグ優勝達成していた
そこで、1993年のシーズンオフ、フリーエージェント制が導入されたことから、落合博満さんを中日ドラゴンズから獲得すると、翌年の1994年、58歳の時には、落合博満さんの活躍もあり、中日と同率最終戦に勝利し、リーグ優勝達成しています。
また、西武ライオンズとの日本シリーズでも、念願の日本一を果たしています。
1994年、日本一に輝き、胴上げされる長嶋茂雄さん。
12年ぶりに巨人軍監督に再登板した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、2年目の1994年には、序盤から首位を独走するも、猛追してきた中日に同率首位に並ばれ、10月8日の最終戦が優勝決定戦となります。 「長嶋茂雄の巨人軍 …
1994年、中日と同率首位で迎えた優勝決定戦となる最終戦(10.8)で早々に2対0とリードした、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、直後、同点に追いつかれるも、すぐに突き放すと、リーグ優勝を決め、日本シリーズでも、リーグ …
長嶋茂雄の60代~80代(現在)
60歳の時に11.5ゲーム差を逆転しリーグ優勝(メークドラマ)していた
そして、1996年、60歳の時には、11.5ゲーム差を逆転しリーグ優勝(メークドラマ)しているのですが、1997年は、不振や故障が相次ぎ、4位に終わると、1998年は、3位に終わり、1999年も2位に終わってしまいます。
1994年には、プロ野球史上初となる、最終試合(10月8日)が優勝決定戦となる中日戦で見事勝利して、リーグ優勝を果たし、その後の西武との日本シリーズも制して日本一に輝いた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1996年に …
64歳の時に4年ぶりのリーグ優勝を果たしていた
そんな長嶋茂雄さんですが、2000年10月28日、64歳の時には、ダイエーからFAした工藤公康投手、阪神を自由契約になったダリル・メイ選手、ドラフトで高橋尚成選手を獲得すると、その甲斐があり、4年ぶりのリーグ優勝を果たしています。
また、日本シリーズでは、王貞治監督率いるダイエー(前年日本一)を下し、見事、日本一に輝いたのでした。
(この日本シリーズは「ON対決」として注目を集めました)
2000年10月28日、日本一を達成した長嶋茂雄さん。
65歳の時に読売ジャイアンツの監督を勇退
そんな長嶋茂雄さんも、2001年、65歳の時には、監督業から勇退すると、巨人軍終身名誉監督として球団専務に就任しています。
1994年には、プロ野球史上初となる、最終試合(10月8日)が優勝決定戦となる中日戦で、見事、勝利して、リーグ優勝を果たすほか、1996年には11.5ゲーム差を逆転しリーグ優勝(メークドラマ)した、長嶋茂雄(ながしま し …
68歳の時に脳梗塞で倒れていた
その後、長嶋茂雄さんは、2002年には、アテネオリンピックを目指す野球日本代表チームの監督に就任すると、2003年にはアジア選手権で優勝し、オリンピックへの出場を決めるのですが・・・
2004年、68歳の時には、「脳梗塞」で倒れてしまい、右半身の麻痺と言語障害が残ってしまいます。
しかし、懸命なリハビリの末、2013年、77歳の時には、国民栄誉賞授与式に参加し、「脳梗塞」で倒れて以降、初めて公の場所でスピーチをするほか、試合前の始球式にも参加するなど、ファンを喜ばせます。
国民栄誉賞授与式より。松井秀喜さんと長嶋茂雄さん。
現役時代は、ここぞというチャンスで抜群の勝負強さを発揮して、「ミスタープロ野球」「燃える背番号3」などと称され、日本中の野球ファンを熱狂の渦に巻き込むと、監督としても、素晴らしい成績を残し、2001年には巨人軍終身名誉監 …
長きに渡って、巨人の4番バッターとしてのみならず、プロ野球界のスーパースターとして活躍するも、2004年、68歳の時に、「脳梗塞」で倒れて以来、右半身の麻痺と言語障害が残っているという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんで …
82歳の時に胆石で緊急入院していた
そんな長嶋茂雄さんですが、2018年7月、82歳の時には、胆石で緊急入院すると、8月には、一時、面会謝絶となるも、その後、無事回復し、2018年末には退院することができたといいます。
2004年、68歳の時には、「脳梗塞」で倒れるも、その後、通常の3~4倍のリハビリを敢行し、2013年には、国民栄誉賞の授与式でスピーチを行うほか、試合前の始球式では片手打ちでバットを振るなど、元気な姿を見せるまでに回復 …
84歳の時にオリンピック開会式と国立競技場での聖火リレーに参加していた
そして、2021年7月23日、84歳の時には、東京オリンピックの開会式、国立競技場での聖火リレーに、王貞治さん、松井秀喜さんとともに参加すると、
吉田沙保里さんと野村忠宏さんから、左手に持ったトーチにトーチキスを受けとり、そのトーチを王貞治さんに渡し、松井秀喜さんに背中を支えられながらゆっくりと場内を歩いています。
2004年に脳梗塞で倒れた後、筋トレと見まごうほどの過酷なリハビリに励んでいたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、2013年、国際オリンピック委員会で、2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定する …
2021年のオリンピックより。(左から)王貞治さん、長嶋茂雄さん、松井秀喜さん。
88歳の時に巨人軍創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」に登場
また、長嶋茂雄さんは、2024年5月3日、88歳の時には、巨人軍創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」にサプライズ登場しています。
巨人軍創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」より。(左から)松井秀喜さん、長嶋茂雄さん、阿部慎之助さん。
1958年、立教大学卒業後、読売ジャイアンツに入団すると、その後、400本塁打、2000安打を達成するほか、最多安打10回(NPB最多記録)、首位打者6回(セ・リーグ最多記録)を獲得する活躍で、巨人のV9に大きく貢献した …