1960年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社すると、1964年には、「東京12チャンネル」(現・テレビ東京)に、開局とともに入社し、ドキュメンタリー構成者として活動をスタートさせると、1977年にはフリーとなり、以降、ジャーナリスト、評論家として精力的に活動を続けている、田原総一朗(たはら そういちろう)さん。

そんな田原総一朗さんは、小学4年生の時に太平洋戦争が始まると、海兵に憧れる軍国少年となったそうですが、小学5年生で終戦を迎えると、それまで教え込まれてきたことが180度変わり、世の中に不信感を抱いたそうで、

中学進学後は、作家に憧れるようになると、高校3年生の時には、家庭の経済状況を考え、昼間は働き、夜間に(憧れの作家の出身大学である)早稲田大学に行くべく、受験勉強に励んだといいます。

今回は、田原総一朗さんの、生い立ち(幼少期から早稲田大学受験まで)をご紹介します。

田原総一朗

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田原総一朗のプロフィール

田原総一朗さんは、1934年4月15日生まれ、
滋賀県彦根市元岡町の出身、

身長166センチ、

血液型はB型、

学歴は、
彦根市立城東国民学校(現・彦根市立城東小学校)
⇒彦根市立佐和山国民学校(現・彦根市立佐和山小学校)(学区整理のため転校)
⇒彦根市立東中学校
⇒滋賀県立彦根東高等学校
⇒早稲田大学第二文学部中退
⇒早稲田大学第一文学部史学科再入学・卒業

趣味は、電話、旅行、

ちなみに、「田原総一朗」は本名で、一家の長男ということで「総一朗」と名付けられたそうです。


田原総一朗が幼い頃は裕福な家庭で何不自由なく育っていた

田原総一朗さんは、お父さん・英次郎さんとお母さん・登志江さんのもと、4人兄弟(弟2人妹1人)の長男として、彦根城の城下町(彦根城から1.5キロ南に下った滋賀県彦根市元岡町)で誕生すると、

幼い頃は、お手伝いさんが一緒に暮らす2階建ての母屋と、2階建ての離れのある大きな家で、何不自由なく育ったそうです。

田原総一朗は幼少期は病弱だったが幼稚園に入る頃には元気になっていた

そんな田原総一朗さんは、幼い頃は、身体が弱くひ弱な子供だったそうですが、やがて、幼稚園に入ると、やんちゃ坊主「五人組」に数えられるほど、元気になったそうです。

田原総一朗は幼稚園の頃は絵を描くことが好きだった

また、田原総一朗さんは、幼稚園の頃は、絵を描くことが大好きだったそうですが、「清水の次郎長」の絵を描いた時には、先生に呆れられたそうです(笑)

田原総一朗が小学校1年生の時に太平洋戦争が勃発していた

そんな田原総一朗さんは、小学校に入学しても、絵を描き続けていたそうですが、小学1年生の年の暮れに太平洋戦争が始まると、授業で戦争の様子が教えられたことから、その影響を受け、やがては、「満蒙開拓青少年義勇軍」の絵日記を描くようになったそうです。

田原総一朗が小学4年生の時には戦争で物資の不足が深刻になり生活が困窮していた

しかし、やがては、太平洋戦争の戦局が厳しくなり、小学4年生の時には、物資の不足が深刻になり、絵を描く余裕がなくなるほど、生活が困窮するようになったそうです。

そして、同時期、学校では軍事教練が始まったそうですが、訓練は厳しく、殴られて鼻血を出したこともあったそうです。

また、もともと、教科書を読む役目は田原総一朗さんが担っていたそうですが、都会から疎開してきた子供たちに取って代わられ、悔しい思いをするなど、この頃には、今でも忘れられない体験をいくつもしたそうです。

田原総一朗は小学4年生の夏頃から戦争には勝てないことを薄々感じるようになっていた

そんな田原総一朗さんは、小学校卒業後は、海軍兵学校へ行って軍人となり、20歳で死ぬことを心に決めていたそうですが、

1944年の夏頃から、戦争には勝てないのではないかと、薄々感じるようになっていったそうで、その矢先、住まいのあった彦根も空襲を受けるなど、危険な状態を肌で感じようになっていったのだそうです。

ちなみに、この戦争で、田原総一朗さんの何人かの親戚は悲惨な末路をたどったといいます。

田原総一朗は小学5年生の時に終戦で一瞬絶望的な気持ちになっていた

そんな中、1945年8月15日、田原総一朗さんは、小学5年生の時に、玉音放送を聞いて終戦(敗戦)を知ると、海軍兵学校に行けなくなり、軍人になれないこと(華々しく死ねないこと)に絶望的な気持ちになったそうですが、

夜、彦根市街に輝く灯りを見て、戦争が終わったんだと、言いようのない解放感に浸ったそうです。

(戦争中は電気をつけてはいけなかった為)

田原総一朗は小学6年生の時に天皇制や裕仁天皇(昭和天皇)の存在に疑問を持つほか教師の言う事が180度変わったことに腹が立っていた

そして、小学6年生の時には、敗戦後、首相の東条英機氏らがA級戦犯として逮捕される中、天皇が逮捕されないことに、天皇制や裕仁天皇(昭和天皇)の存在に疑問を持つようになったほか、

教師の言うことが180度変わったことから、納得がいかずに質問攻めにすると、答えに窮した教師に立たされたこともあったそうで、腹が立ったそうです。

(教師は間違ったことを教えてきたにもかかわらず謝罪しないことにも腹が立ったそうです)

田原総一朗は中学時代には教師相手に論争を楽しんでいた

そんな中、田原総一朗さんは、中学時代、成績優秀だったそうで、教師相手に論争を楽しみ、答えに窮する教師をイジメて面白がっていたといいます。

田原総一朗は中学時代から小説を書き始めていた

その一方で、田原総一朗さんは、中学時代は、野球や絵を楽しみ、絵はコンクールで賞をもらうほどの腕前だったそうです。

また、小説も書き始めたそうですが、他人に読んでもらうのではなく、あくまで、自己満足で書いていたのだそうです。

田原総一朗は高校時代に小説を書くサークル「文学会」を立ち上げていた

そんな田原総一朗さんは、中学卒業後、高校に進学すると、小説を書くサークル「文学会」を立ち上げ、部員のみんなで小説を書き、お互い読み合いをしたり、みんなで文学議論を戦わせるなどしていたそうです。

田原総一朗の高校時代は経済的に困窮した一家の家計を支えるために家庭教師などのアルバイトをしていた

ただ、家計は、お父さんが仕事で失敗して借金を作るなど、経済的に困窮したそうで、田原総一朗さんは、家計を助けるため、家庭教師などのアルバイトをしていたそうです。

田原総一朗は高校3年生の時に作家になるため早稲田大学進学を志望するも母親の反対に遭っていた

そんな中、田原総一朗さんは、高校卒業後は、作家を目指すべく、憧れの作家の出身大学だった早稲田大学への進学を希望していたそうですが、

(家庭の経済状況を考えて、早稲田大学は夜間部(第二文学部)に通い、昼間は会社勤めをしようと考えていたそうです)

滋賀大学や京都大学への進学を希望していたお母さんの大反対に遭ったそうです。

それでも、田原総一朗さんは、昼間の勤め先を「交通公社」に決め、高校3年生の秋に上京し、「交通公社」の本社で試験を受けると、見事合格したのだそうです。

田原総一朗は18歳の時に交通公社に入社するも研修で劣等感を味わっていた

そして、1953年1月、18歳の時には、早稲田大学進学を希望し、昼間働いて、夜に大学に行くべく、「交通公社」に入社したそうですが、

2月と3月に行われた「交通公社」の研修では、高卒組と大卒組で研修が別で行われたほか、仕事も何かと差があったそうで、高卒組の田原総一朗さんは劣等感を味わったといいます。

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田原総一朗は18歳の時に早稲田大学に合格するも当初は不合格だと勘違いしていた

そんな中、田原総一朗さんは、会社の研修を受けながら、受験勉強を続け、見事、早稲田大学に合格しているのですが、

実は、田原総一朗さんは、当初、不合格だと勘違いして、がっかりしていたそうで、後に合格していたことを知り、大喜びしたといいます。

「田原総一朗の若い頃は会社員!デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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