1936年、2歳の時に、映画「江戸っ子フクちゃん」の主人公・フクちゃん役で子役デビューすると、NHKの実験放送のテレビドラマにも出演するなど、天才子役としてテレビ草創期から活躍し、その後は、タレントとしてバラエティ番組に出演するほか、1959年~1961年には紅白歌合戦の紅組司会を3年連続務めるなど、幅広く活躍した、中村メイコ(なかむら めいこ)さん。
そんな中村メイコさんは、子役時代の10歳の時には、軍からの要請で特攻隊の基地に慰問団として派遣されると、歌を歌ったり、お芝居をしたりしたそうですが、やがて、ほかの若い女優ではなく、子供である中村メイコさんだけが要請されるようになったそうで、明日死に行く若い特攻兵を見て、子供心にも悲しい思いをしたといいます。
今回は、中村メイコさんの、生い立ち(幼少期から進駐軍の慰問に行っていた時代まで)をご紹介します。
中村メイコのプロフィール
中村メイコさんは、1934年5月13日生まれ、
東京都杉並区下高井戸の出身、
身長153センチ、
血液型はO型、
学歴は、
大田区立雪谷小学校卒業、
ちなみに、中村さんの本名は「神津五月(こうづ さつき)」(戸籍上は「神津五月」)なのですが、幼い頃から、家族からも「さつき」と呼ばれたことはなく、(5月は英語でMayであることから)「メイ」「メイコちゃん」と呼ばれていたそうで、そのまま芸名になったのだそうです。(旧芸名は「中村メイ子」)
1936年、わずか2歳8ヶ月の時に、映画「江戸っ子 健ちゃん」で子役デビューすると、以降、複数の役で7色の声を使い分けるなど、天才子役として名を馳せ、その後も、テレビドラマ、映画、舞台と幅広く活動している、中村メイコ(な …
中村メイコが幼い頃は父親から独特の教育を受けていた
中村メイコさんは、ナンセンス(ユーモア)作家のお父さん・中村正常さんと、元新劇の女優で作家のお母さん・チエコさんのもと、一人娘として誕生すると、白いテラスのある洋風の家で、何不自由なく育ったそうですが、お父さんの子育ては独特で、ユーモアに溢れていたといいます。
一律した学校教育を嫌ったナンセンス作家のお父さん・中村正常さんの意向で、小学校へはほとんど行かなかったという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんですが、そんなお父さんの子育ては、独特で、また、ユーモアに溢(あふ)れていた …
中村メイコが幼い頃は母親からは厳しく躾けられていた
一方、お母さんからは、厳しく躾(しつ)けられたそうで、中村メイコさんは、子役として活動していたのですが、特別扱いされることなく、家では普通の女の子として、毎日、家事一切の手伝いをするよう言われていたそうです。
幼い頃、ぐずると、お父さんの中村正常さんからは、「君ぐらいの器量の子は、いつもニコニコしているくらいでちょうどいいですぞ」と言われて育てられたことから、いつもニコニコするようにし、おもしろいことを言ってみたり、人の言うこ …
中村メイコは2歳の時に映画「フクちゃん」で子役デビューし一躍脚光を浴びていた
そんな中村メイコさんは、1936年、2歳の時、売れっ子作家だったお父さんの中村正常さんと一緒に写った一枚の写真が雑誌に載ったことがきっかけで、
映画「江戸っ子フクちゃん」の主人公・フクちゃん役にスカウトされて子役デビューすると、自然体で愛らしい姿が、「天才子役」として一躍脚光を浴びています。
押さえるところは押さえながらも、自由にのびのびと育てられたという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、2歳の時には、売れっ子作家だったお父さんの中村正常さんと一緒に写った一枚の写真が雑誌に載ったことがきっかけで、映画デ …
映画「フクちゃん」より。
2歳の時に、「江戸っ子 健ちゃん」で映画デビューして以来、数々のコメディ映画やテレビドラマに出演し、その愛くるしい自然体の演技で、”天才子役”と呼ばれるようになった、中村メイコ(なかむら めいこ) …
中村メイコは6歳の時にNHK実験放送「謡と代用品」でテレビドラマデビュー
そして、1940年、6歳の時には、NHKの実験放送されたテレビドラマ「謡と代用品」でテレビドラマデビューすると、以降、テレビ放送黎明期のテレビ番組にも出演するようになったそうです。
2歳の時、売れっ子作家だったお父さんと写った写真が雑誌に掲載されたことがきっかけでスカウトされ、1936年、2歳8ヶ月にして、朝日新聞の連載漫画「フクちゃん」を実写化した「江戸っ子 健ちゃん」の「フクちゃん」役でデビュー …
「謡と代用品」より。(左から)荒木道子さん、中村メイコさん、坂本猿冠者さん。
中村メイコは小学校では孔雀の檻に閉じ込められていた
中村メイコさんは、小学生の時には、ナンセンス作家であるお父さんの中村正常さんが一律な学校教育が大嫌いだったこともあり、小学校にはほとんど通っていなかったそうですが、
たまに学校に行くと、人だかりができて危険だという理由から、なんと、孔雀の檻に閉じ込められていたといいます。
“天才子役”や”七色の声”と称されるなど、幼い頃から芸能界で活動していた、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、一律な学校教育が大嫌いだった、ナンセンス作家であるお父さんの …
中村メイコは8歳の時に列車が爆撃を受けるも九死に一生を得ていた
そんな中、やがて、太平洋戦争の戦火が激しくなり、1942年5月、8歳の時には、興行で徳川夢声さんの一座と九州へ向かっている際、乗っていた列車が爆撃を受けたそうですが、
中村メイコさんは、お母さんに抱えられて線路脇の麦畑に飛び降り、九死に一生を得たそうです。
滅多に行かない小学校では、人だかりになって危険と、孔雀(くじゃく)の檻(おり)に入れられるも、芸能界では可愛がられ、家庭でも、個性的な両親のもと何不自由なく伸び伸びと育っていたという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんで …
中村メイコは10歳の時に特攻隊の慰問を要請されていた
また、1943年春には、東京の街も戦争一色となり、中村メイコさんは、両親とともに奈良県に疎開すると、疎開先の奈良から、大阪、京都、神戸の舞台に出演したそうですが、
1945年、10歳の時には、軍から特攻隊の基地に慰問を要請されたそうで、軍からの要請は断ることはできず、慰問団に加わったそうです。
興行で九州へ向かう際、乗っていた列車が爆撃されるも、お母さんに抱えられて飛び降り、九死に一生を得たという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、やがて、東京の街も戦争一色となり、両親とともに奈良県に疎開すると、疎開先の奈 …
そして、特攻隊の基地では、中村メイコさんたち慰問団のメンバーは、歌を歌ったり、お芝居をしたそうですが、中村メイコさんは、軍歌ではなく、オリジナル曲を歌って、特攻兵たちに喜ばれたそうです。
そのうち、中村メイコさんは、軍から指名されるようになったそうですが、その理由は、若くて美しい女性を見ても虚しくなるだけで、何の慰めにもならないことから、特攻隊員たちを奮い立たせるには、小さな子供を送り込むことが一番だと考えられたからだそうです。
特攻隊の慰問では、他の慰問団の女性たちが皆もんぺ姿だった中、一人だけワンピース姿につけまつ毛という、女の子らしい格好で行ったという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、歌も軍歌ではなく、オリジナル曲を歌って、特攻兵たち …
(周りの若い女性たちが皆もんぺ姿の中、中村メイコさんだけは、当時、親しくしてもらっていた淡谷のり子さんの影響で、一人だけ、かわいらしいワンピースを着て、つけまつ毛をするなど、女の子らしい格好をしていたそうです)
敗戦色が濃厚となった1945年、10歳の時、軍から特攻隊の基地に慰問するよう要請され、慰問団に加わったという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんですが、周りが皆もんぺ姿の中、当時、親しくしてもらっていたという淡谷のり子さ …
中村メイコが15~16歳の時には進駐軍の慰問に行き英語で歌を歌っていた
そんな中村メイコさんは、終戦後は、疎開先の奈良県から東京に戻ると、NHKラジオの仕事をしていたそうですが、
1949年~1950年(15~16歳)頃には、今度は進駐軍の慰問に行ったそうで、一生懸命、英語の歌詞を覚え、「gonna take a sentimental journey」などを歌ったそうです。
敗戦の色が濃くなった1945年には、疎開先の奈良県から特攻隊の基地まで慰問団として派遣され、明日死にに行く若い特攻兵を見て、子供心にも悲しい思いをしたという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんですが、終戦後は、今度は進駐 …
「【画像】中村メイコの若い頃は?デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く
1936年、2歳の時に子役としてデビューすると、黎明期のテレビドラマ業界を支え、その後も、テレビドラマのほかにも、映画、司会、歌手など、幅広く活躍した、中村メイコ(なかむら めいこ)さん。 今回は、そんな中村メイコさんの …