1989年に広島カープの監督に就任すると、3年目の1991年には広島をリーグ優勝に導き、その後1993年には辞任するも、2001年には再び広島カープの監督に就任し、金本知憲選手や新井貴浩選手を球界を代表する強打者に育て上げた、山本浩二(やまもと こうじ)さん。
今回は、そんな山本浩二さんの若い頃(監督・コーチ時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】山本浩二の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
山本浩二の40代の時に広島の監督で優勝していた
42歳の時に広島から監督就任要請されると即引き受けていた
1986年に現役を引退した山本浩二さんは、1987年~1988年には、解説者や評論家として活動していたのですが、1988年秋、広島球団から監督就任要請をされると、監督をするつもりで準備をしていたことから、即、引き受けたそうです。
「行った」と思った打球がフェンス前で失速するようになるほか、持病の腰痛の悪化でフル出場ができなくなったことから、4番としての仕事が出来ないと、1986年限りで現役を引退した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、その後、解 …
そして、その後、NHKの会合で藤田元司さんと会った際には、監督として何が必要かアドバイスを求めると、藤田元司さんには、コミュニケーションの重要性を教えてもらったといいます。
そんな山本浩二さんは、監督就任後は、ヘッドコーチに元同僚の大下剛史さんを招聘しているのですが、以前から、監督になる日が来たら、ヘッドはこの人と決めていたといいます。
43歳の時は開幕ダッシュに成功するも巨人に9ゲーム差をつけられて2位に終わっていた
そんな山本浩二さんは、監督就任1年目の1989年、43歳の時には、開幕戦こそ阪神に敗れたものの、4月を15勝3敗と開幕ダッシュに成功し、最終的には73勝51敗6分けで貯金22と好成績を残すのですが、
この年の巨人は84勝44敗2分けで貯金40と、あまりにも強過ぎたため、9ゲーム差をつけられて2位に終わってしまいます。
1988年秋に、広島球団から監督就任要請を受け、広島カープの監督に就任した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、監督就任1年目の1989年は、開幕戦こそ阪神に敗れたものの、4月を15勝3敗と開幕ダッシュに成功し、最終的に …
44歳の時も巨人に22ゲーム差をつけられて2位に終わっていた
また、監督就任2年目の1990年、44歳の時も、4月から低迷し、7月上旬からは、大洋や中日との2位争いを繰り広げ、8月に、ようやく2位に浮上するのですが、結局、巨人に22ゲーム差をつけられ、2位に終わってしまいます。
45歳の時に7.5ゲーム差を逆転して初のリーグ優勝を果たしていた
それでも、監督就任3年目の1991年、45歳の時には、最大7.5ゲームをひっくり返し9月で首位に立つと、監督として初のリーグ優勝を果たしています。
広島監督就任1年目の1989年は、開幕ダッシュに成功し、最終的にも73勝51敗6分けで貯金22と好成績を残すも、巨人が84勝44敗2分けで貯金40と、あまりに強過ぎ、9ゲーム差もつけられて2位に終わった、山本浩二(やまも …
1991年10月13日、セリーグ優勝を決め、ナインに胴上げされる山本浩二さん。
実は、1991年4月14日の巨人戦、1対0のリードで迎えた8回、先発の北別府学投手から、守護神・津田恒実投手に交代するも、右前打、四球、左前打であっという間に同点とされてしまったため、わずか9球で津田恒実投手を大野豊投手に交代させているのですが、
津田恒実投手からは、その日の夜、池谷公二郎投手コーチを通して「二軍に落として欲しい」と言われていたそうで、
広島カープ監督就任3年目の1991年4月14日の巨人戦、1対0のリードで迎えた8回、守護神・津田恒実投手を登板させるも、右前打、四球、左前打であっという間に同点とされ、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、わずか9球で津田 …
津田恒実投手に降板を告げる山本浩二さん。津田恒実さんはこれが最後の登板となりました。
津田恒実投手は、長引く頭痛から、広島大学病院で検査入院し、精密検査を受けると、なんと、悪性の脳腫瘍であることが判明していたのだそうです。
これを知った広島ナインは、首位の中日に7.5ゲーム差つけられる中、断トツ最下位の阪神に負けた翌日の9月4日に、決起集会を開いて、津田恒実投手のために一つになろうと誓い、優勝することができたのだそうです。
広島カープ監督就任3年目の1991年10月13日、監督として初のリーグ優勝を果たした、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、実は、この年、開幕早々に、津田投手が悪性の脳腫瘍であることが判明すると、9月には選手だけで決起 …
「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実投手。
47歳で監督を辞任
そんな山本浩二さんも、監督就任4年目の1992年は4位、5年目の1993年は19年ぶりの最下位に沈んでしまい、成績不振の責任を取って辞任を申し出ると、
松田耕平オーナーには慰留されたそうですが、1993年限りで監督を辞任したのでした。
山本浩二は55歳の時に広島に再び監督就任要請され監督に就任するも一度もAクラスになることなく辞任していた
その後、山本浩二さんは、1994~2000年、解説者として活動していたのですが、2001年、55歳の時には、広島に要請され、再び、監督に就任しています。
しかし、2001年は4位、2002年は5位、2003年も5位、2004年も5位、そして、2005年は12年ぶりの最下位で、一度もAクラスになることなく、再び辞任したのでした。
1988年オフに広島監督に就任すると、就任1年目、2年目は2位、3年目にはリーグ優勝を果たした、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、4年目は4位、5年目は最下位に沈んでしまい、成績不振の責任を取って1993年限りで監 …
ちなみに、山本浩二さんは、1991年の秋、ドラフト4位で獲得した金本知憲選手をファームでじっくり鍛えていたのですが、その金本知憲選手は、山本浩二さんが辞任した1993年の翌年から頭角を現すと、2000年には史上7人目のトリプルスリーを達成するなど球界を代表する選手になっています。
また、金本知憲選手が2002年オフ、FAで阪神に移籍すると、その後釜として、2003年は、開幕から、新井貴浩選手を4番に起用するのですが、新井貴浩選手は深刻な打撃不振に陥ってしまいます。
それでも、山本浩二さんは、新井貴浩選手を我慢して使い続けると、山本浩二さんの広島最終年である2005年、広島は最下位に終わるのですが、新井貴浩選手はホームラン王に輝いたのでした。
監督としては、最初の3シーズン(1989年~1991年)は、2位、2位、優勝も、その後の7シーズン(1992~1993年、2001~2005年)は、4位、最下位、4位、5位、5位、5位、最下位と、全てBクラスに沈んだ、山 …
広島監督在任中の1991年秋のドラフトで4位指名した金本知憲選手を、重点強化選手に指定してファームでじっくり育てると決めると、金本選手が育つ前に、1993年に監督を辞任するも、その後、金本選手が素晴らしい選手に育ち、広島 …
山本浩二は66歳の時に野球日本代表(侍ジャパン)監督に就任
2005年限りで広島カープの監督を辞任した山本浩二さんは、2008年には北京オリンピック野球日本代表チームで、星野仙一監督のもと、守備・走塁コーチをを務めています。
また、2012年10月10日、66歳の時には、野球日本代表(侍ジャパン)監督に就任すると、11月16日と18日に行われた、国際親善試合のキューバ代表戦では、2戦2勝と幸先の良いスタートを切っています。
2005年限りで広島カープの監督を辞任すると、2008年には北京オリンピック野球日本代表チームで、星野仙一監督のもと、守備・走塁コーチをを務めた、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、2012年10月10日、野球日本代表( …
そんな山本浩二さんは、本番の「第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)」でも、第1ラウンド(A組)を2勝1敗で2位通過すると、第2ラウンドでは、敗色濃厚だったチャイニーズ・タイペイ戦で、奇跡の逆転勝利を収め、第2ラウンドを3戦全勝で1位通過するのですが・・・
2012年10月10日、野球日本代表(侍ジャパン)監督に就任すると、11月16日と18日に行われた、国際親善試合のキューバ代表戦では、2戦2勝と幸先の良いスタートを切った、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、本番の「第3 …
準決勝では、惜しくもプエルトリコに1対3で敗れてしまい、オランダと並びベスト4に終わってしまったのでした。
そして、山本浩二さんは、この試合の敗因と考えられた、8回裏の重盗(Wスチール)失敗の責任を全て一人で背負い込んだのでした。
2012年10月10日に野球日本代表(侍ジャパン)の監督に就任した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、第1ラウンドを2勝1敗で2位通過すると、第2ラウンドも3戦全 …
山本浩二は73歳の時に膀胱ガンや肺ガンで1年で7度もの手術を受けていた
そんな山本浩二さんは、2019年、73歳の時には、膀胱ガンと肺ガンが見つかり、手術を受けると、胆石除去や気管支系の手術も受けたそうで、なんと、1年で7度もの手術を受けていたといいます。
現役時代には、4度の本塁打王、3度の打点王、1度の首位打者を含む、2339安打536本塁打1475打点231盗塁という、とてつもない記録を残している、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、2019年には、膀胱ガンと肺ガ …
1969年、ドラフト1位で広島カープに入団すると、一気に才能開花とはならなかったものの、1972年に25本塁打するなど徐々に成績を上げ、7年目の1975年には、打率3割1分9厘で首位打者となるほか、安打、打点、本塁打でも …