1969年9月、大学4年生の時、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューすると、解散後の1970年3月には、「はっぴいえんど」を結成し、ロックのサウンドに日本語の歌詞を融合させた〝日本語ロック〞を確立した、細野晴臣(ほその はるおみ)さん。

今回は、そんな細野晴臣さんの、若い頃(「エイプリル・フール」時代からソロ時代)の代表曲(歌)や経歴を時系列でまとめてみました。

細野晴臣

「細野晴臣の生い立ちは?幼少期から音楽に恵まれ中学時代からバンドを結成していた!」からの続き

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細野晴臣は大学4年生の時にロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストしてデビュー

細野晴臣さんは、人一倍音楽が好きなだけで、特に、将来、プロになりたいと思っていた訳ではなかったそうですが、大学4年生の卒業間近、学内の就職窓口を訪ねると、受付期間は既に終わっていたそうで、

1年留年して、その間に何をやるか決めようと思っていると、そんな中、1969年3月、プロのバンドで活動していた友人から誘われ、ロックバンド「エイプリル・フール」に加入したそうで、

1969年9月、22歳の時には、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストして、アルバム「APRYL FOOL」で、デビューを果たしたのだそうです。

「エイプリルフール」
「エイプリル・フール」

ちなみに、「エイプリル・フール」は、海外も視野に入れていたことから英語の歌詞が中心だったほか、当時流行していたアート・ロックなどの影響もあって、サウンド志向が強く、実験性やメッセージ性が高い作りになっていたそうですが、

細野晴臣さんは、ここで、ソングライティングに目覚め、アルバムの中の「暗い日曜日」では、作曲を担当するなど、制作に積極的に参加したそうで、(作詞は松本隆さんが担当)

細野晴臣さんは、

結果的にそれが自分の就職になったのです

と、語っています。

ただ、アルバム制作時、細野晴臣さんと(メンバーの)柳田ヒロさんが大ゲンカし、「エイプリル・フール」は、結成して一ヶ月と持たずに解散したのだそうです。

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日本コロムビア

細野晴臣は23歳の時には「はっぴいえんど」を結成しアルバム「はっぴいえんど」「風街ろまん」をリリース

そんな細野晴臣さんは、1969年9月には、松本隆さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんと、「バレンタイン・ブルー」を結成し、オリジナル曲の制作などを開始すると、

翌年の1970年3月には、「バレンタイン・ブルー」を「はっぴいえんど」と改称して活動を本格化させ、

と、2枚のアルバムをリリースし、

ロックのサウンドに日本語の歌詞を融合させた〝日本語ロック〞を確立しています。

ただ、この「はっぴいえんど」も、「燃焼しきったので」という理由で、1972年に解散となっています。

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細野晴臣は25歳~31歳の時にはソロアルバム「HOSONO HOUSE」「トロピカル・ダンディー」「はらいそ」ほか

その後、細野晴臣さんは、ソロに転身し、

と、アルバムをリリースしています。

また、ソロ活動と並行し、鈴木茂さん、林立夫さん、松任谷正隆さんと、「キャラメル・ママ」(後に「ティン・パン・アレー」と改名)を結成すると、

荒井由実さん、矢野顕子さんをはじめ、多数のアーティストのプロデュースも行ったのでした。

「【画像】細野晴臣の若い頃(YMO時代)が凄い!アルバムを時系列まとめ!」に続く

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