アレンジャー、プロデューサーとして、沢田研二さん、アンルイスさん、ウルフルズほか、数多くのアーティストを手掛ける一方で、佐野元春さんのバンド「The Heartland」のギタリストとしても活躍した、伊藤銀次(いとう ぎんじ)さんですが、
そんな伊藤銀次さんは、幼い頃は、歌謡曲が好きなお父さんの影響で、いつも歌謡曲が流れている環境で育つと、小学生の頃にはクラシックを聴き、中学生の時には「ビートルズ」の音楽を聴いて衝撃を受けると、やがて、自分でもギターを始め、高校時代は、様々なバンドを掛け持ちしてギター演奏するようになったといいます。
今回は、伊藤銀次さんの生い立ち(幼少期から関西でプロを目指すまで)をご紹介します。
伊藤銀次のプロフィール
伊藤銀次さんは、1950年12月24日生まれ、
大阪府大阪市住吉区生まれ
大阪府池田市の出身、
学歴は、
大阪教育大学附属高等学校池田校舎
⇒大阪歯科大学歯学部中退
ちなみに、本名は「伊藤一利」です。
伊藤銀次が幼い頃は歌謡曲が絶えず流れている環境で育っていた
伊藤銀次さんは、歯科医のお父さんのもと、長男として誕生すると、幼い頃は、お父さんが営む歯科診療所の2階に住んでいたそうですが、
お父さんが歌謡曲好きだったことから、いつも診療所で歌謡曲をかけていたそうで、階下から流れてくる音楽をずっと聴いて育ったそうです。
伊藤銀次が小学生の時はクラシックを聴くようになっていた
そして、小学生の頃には、お父さんが、リーダーズ・ダイジェスト社の10枚組ぐらいのクラシック全集を買ってくれたそうで、
「ドナウ川のさざ波」(イヴァノヴィチ)や「金と銀」(レハール)などのクラシックを毎日のように聴くようになったそうです。
(学校の筆記テストは苦手だったそうですが、スペリオパイプ(リコーダー)やハーモニカが大好きで、よく練習するような音楽が好きな子どもだったそうです)
伊藤銀次が小学生の頃はヒーロー番組の主題歌にも夢中になっていた
また、伊藤銀次さんは、テレビもよく見ていたそうで、お父さんが好きだったクレージーキャッツや坂本九さんが「ザ・ヒットパレード」で歌う日本語の洋楽に憧れたり、「月光仮面」「七色仮面」などのヒーロー番組の主題歌にも夢中になったそうですが、
伊藤銀次さんは、
友達は主役の月光仮面を見るんだけど、僕は悪役なんかにも目が行っちゃう。主役のキャラクター性は意外と単純。格好良くてスターですから。
でも脇役はシブい。しかも、あるドラマではすごい悪役をやっていた役者が別のドラマではいい人になっていたり。それから月光仮面や『快傑ハリマオ』の制作は宣弘社プロダクション、『七色仮面』は東映制作とか、そういうことに気付くと面白くなって。
後に音楽を本格的に聴くようになってからも、曲を作っている人とかバックミュージシャンとか、その音楽が作られた背景とかがすごく気になっていました
と、語っています。
(伊藤銀次さんは、ラジオドラマで聞いた、「赤胴鈴之助」の主題歌を歌っていた「上高田少年合唱団」に入りたいとも思っていたそうです)
伊藤銀次は中学時代に初めてビートルズの音楽を聴き衝撃を受けていた
その後、伊藤銀次さんは、中学生の頃、テレビの5分番組だった国際ニュースの中で、初めて「ビートルズ」を知ったそうで、
(「欧米で吹き荒れるビートルズ旋風」と題された映像には、飛行場に到着したビートルズの4人を迎える熱狂的なファンの姿が映し出されていたそうです)
洋楽に詳しい友達に聞くと、
いや、これはすごいよ
と、言われたことから、
さっそく、ビートルズのレコードを借りてきて、レコードに針を落とすと、その瞬間、
こんな音楽は聴いたことがない
と、これまで味わったことない熱が体の中に沸いてくるのを感じたそうで、
それからは、あまり勉強せず、音楽一筋になったそうです。
伊藤銀次が中学生の時にはラジオで洋楽のリクエスト番組などを熱心に聴いていた
そして、伊藤銀次さんは、情報を求めてラジオも聞き始めると、洋楽のリクエスト番組などを新聞のラジオ欄で全てチェックするようになり、
ビートルズだけでなくザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ホリーズといった英米バンドのほか、映画音楽やジャズのヒット曲なども、全身に浴びるように熱心に聴くようになったそうです。
(伊藤銀次さんは、洋楽の情報を書き留める「情報ノート」を作り、ラジオをかけながら、聴いたことがない曲がかかると一生懸命タイトルを書き取っていたそうで、部屋に親が来た時には、勉強のノートの下にその情報ノートを隠したそうです)
伊藤銀次が高校生の時にはビートルズの曲を耳コピーで練習していた
そんな伊藤銀次さんは、やがて、ジョン・レノンやポール・マッカートニーのように弾きながら歌いたいと思うようになったそうで、ギターを始めると、当初は、友人にギターを借りていたそうですが、
高校に合格したご褒美に、お父さんにギターを買ってもらうと、早速、ビートルズのソングブックを買ってきて、その通りに弾いてみたそうですが、なぜかレコードの音とは似ても似つかなかったそうです。
(ソングブックは、日本人にはビートルズのキーは高すぎるということで、低いキーにしてあったそうです)
そこで、仕方なしにレコードを聴いて耳コピーを始めると、コード展開など、いろんなことが分かってきたそうで、耳コピーで新たなコード進行に出会うたびに、ギターにのめり込んでいったのだそうです。
すると、そのうち、(周囲には、ギターは弾けてもコードを弾ける人がいなかったことから)いろいろな曲のコードをやってくれと頼まれるようになり、4バンドぐらい掛け持ちするようになったのだそうです。
伊藤銀次は19歳の時にバンド「グラス・ブレイン」に加入しプロを目指していた
その後、伊藤銀次さんは、高校卒業後の1969年、18歳の時、大阪歯科大学に入学したそうですが、洋楽のコピーバンドは続けていたそうで、
そんな中、新聞広告で見た天王寺野外音楽堂のフリーロックコンサートに出場すると、旗振り役だった福岡風太さん(後の音楽プロデューサー)らに気に入られたそうで、
翌年1970年8月(伊藤銀次さん19歳)に大阪城公園で開催された「ロック合同葬儀」にスタッフとして加わると、そのライブで演奏したギタープレイが評判となり、関西で活躍していた「グラス・ブレイン」というバンドに加入し、プロを目指すことになったのだそうです。
ただ、大学は休学したそうで、伊藤銀次さんは、
音楽を諦めて歯科医になり、将来、自分が診療中に知っている人の音楽が流れてきたら後悔すると思ったんです。
長男でしたから、父を継ぐって思っていましたが、敷かれた線路の上を走ることに抵抗があった。自分の人生なんだから自分で切り開きたいと
と、語っています。
「伊藤銀次のデビューはごまのはえ(ココナツバンク)!大瀧詠一に師事していた!」に続く
大阪で、ロックバンド「ごまのはえ」として活動すると、その後、大瀧詠一さんのプロデュースにより、「ココナツ・バンク」と改名し、大瀧詠一さんの「ナイアガラ・レーベル」第一弾としてデビューする予定だったという、伊藤銀次(いとう …