ヂーゼル自動車(現・いすゞ自動車)から明治大学を経て、1949年、中日ドラゴンズに入団すると、通算525試合で、215勝123敗、防御率2.23と、輝かしい成績を残し、1954年には、中日を球団初のリーグ優勝と日本一に導いた、杉下茂(すぎした しげる)さん。
今回は、そんな杉下茂さんの若い頃(いすゞ自動車時代から現役引退まで)の成績や経歴を時系列でご紹介します。
「杉下茂の生い立ちは?幼少期は病弱!中学では大人の事情で不登校になっていた!」からの続き
杉下茂は19歳の時に徴兵され中国に出兵するも配属先は恵まれた環境だった
杉下茂さんは、高校卒業後は、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職したそうですが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年12月25日、19歳の時、徴兵され、翌年の1945年1月に中国に出兵したそうです。
帝京商業学校野球部では、ついに甲子園に行くことができなかったという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、高校卒業後は、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職したそうですが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年、19 …
ただ、配属された「中支(中部支那=現・華中)」は、銃撃戦がなく、気候も温暖で、食料も豊富だったうえ、家庭を持っている年配の人たちが多かったことから、
他の部隊のように、理不尽ないじめや制裁もなく、コレラ(感染症)と生水を除けば、兵隊としては恵まれた環境だったそうです。
1943年12月、帝京商業学校を卒業し、川崎市のヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職するも、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年、19歳で徴兵検査を受けさせられ、「第一乙種」とされると、程なくして入隊した、杉下 …
1945年1月には、中国に出征するも、配属された「中支」は銃撃戦がなく、気候も温暖、食料も豊富で、他の部隊のように、理不尽ないじめや制裁もなく、恵まれていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、同年4月、所属していた …
杉下茂は19歳の時に中国の捕虜収容所で開かれた野球大会で投手を務めていた
そして、1945年8月15日に終戦を迎えると、杉下茂さんは、中国で捕虜となり、捕虜収容所に入れられたそうですが、
その捕虜収容所は、もともと日本軍の施設だったことから、トンカツを食べることができるほど食料も豊富だったほか、強制労働をさせられたり暴力を振るわれることもなかったそうで、ここでも恵まれた環境で過ごすことができたそうです。
1945年8月15日、玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞き、敗戦を知るも、日本に帰るあてがなかったことから、そのまま、倉庫管理係を続けていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、上海近くの呉淞(ウースン)という …
また、そこでは、野球大会が開かれたそうで、杉下茂さんは、高等小学校以来となる投手を務めたそうですが、帝京商業時代に痛めたはずの肩がウソのように治っていたのだそうです。
終戦後、中国で捕虜収容所に入れられるも、強制労働をさせられることもなく、暴力を振るわれることもなく、もともと日本軍の施設だったことから、食料が豊富で、トンカツを食べることもできるほど、恵まれた暮らしを送っていたという、杉 …
杉下茂は20歳の時にいすゞ自動車硬式野球部でノーヒットノーランを達成していた
そんな杉下茂さんは、1946年1月3日、20歳の時、中国から帰国すると、中国出征前に勤めていた川崎市のヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)の硬式野球部に投手として復帰したそうですが、
初の体外試合であるコロムビア戦では、いきなり、ノーヒットノーランを達成したといいます。
帝京商業時代には、右肩を痛め、投手を断念せざるを得なくなっていたにもかかわらず、戦争で手榴弾を投げているうちに、肩の痛みがなくなったという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、終戦後、中国から帰国して、初の体外試合では、い …
杉下茂は20歳の時に中部日本(後の中日ドラゴンズ)からスカウトされるも明治大学に進学していた
そして、1946年2月には、「中部日本(後の中日ドラゴンズ)」からスカウトされたそうですが、
杉下茂さんは、東京六大学野球に憧れていたことから、これを断り、いすゞ自動車を退職して、東京六大学野球リーグに参加していた明治大学旧制専門部に野球推薦で進学。
(当時は、東京六大学野球全盛の時代で、プロ野球は職業野球と呼ばれて、どちらかというと蔑まれる存在だったそうです)
終戦後、中国から帰国して、初めての体外試合で、いきなりノーヒット・ノーランを達成した、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、「中部日本」(後の中日ドラゴンズ)からスカウトされるも断り、明治大学に進学したといいます。 …
また、杉下茂さんは、帝京商業時代に右肩を痛めていたため、その旨、監督に告げると、監督のアドバイスにより、アンダースローで投げることになったそうですが、
なんと、1日1000球もの投手練習をさせられたのだそうです。
東京六大学野球リーグで野球をやりたかったことから、いすゞ自動車を退職して、友人のお父さんに便宜を図ってもらい、野球推薦という形で明治大学に進学したという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、いざ入学すると、野球熱が冷め …
杉下茂は22歳の時に日本ではまだ知られていなかったフォークボールの投げ方を会得していた
そんな中、大学卒業直前の1948年正月、帝京商業学校時代の監督で、明治大学では技術顧問だった天知俊一さんから、日本ではまだ知られていなかった”フォークボール”の存在を聞いたそうで、
誰も投げ方を知らなかったことから、いろいろな握り方を試し、試行錯誤の末、ついに、フォークボールの投げ方を会得したそうですが、
試合で初めてフォークを投げると、当り損ないながらもヒットになったことから、縁起が悪く感じ、以来、フォークボールは封印したのだそうです。
明治大学では、アンダースローで1日1000球もの投球練習をさせられていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、大学卒業直前の正月、帝京商業学校時代の監督で、明治大学では技術顧問だった天知俊一さんから、日本ではまだ …
杉下茂は23歳の時に中日ドラゴンズに入団
その後、杉下茂さんは、1949年、大学卒業後、中日ドラゴンズに入団すると、いきなり、1年目の1949年に8勝、そして、2年目の1950年には27勝という成績を収めているのですが、
フォークボールは、解禁はしていたものの、この2年間では、ここぞという時しか投げず、また、タイミングを外す程度の使い方しかしていなかったのだそうです。
帝京商業学校時代の監督で、明治大学では技術顧問だった天知俊一さんにフォークボールの存在を聞き、試行錯誤の末、投げ方を会得するも、試合で初めてフォークを投げた際、当たり損ないながらヒットになったことから、縁起が悪いと、以来 …
杉下茂は25歳(中日ドラゴンズ入団3年目)の時にほぼ直角に落ちるフォークボールを編み出していた
ただ、入団3年目の1951年2月下旬、米サンフランシスコ・シールズのキャンプに招待されると、アメリカ人選手がものすごいパワーで打ち返して来たことから、本格的にフォークボールを投げてみようと思いたち、
その結果、打者の手前でストーンとほぼ直角に落ちる、落差の激しいフォークボールを編み出したそうで、
明治大学卒業間際に、帝京商業学校時代の監督で明治大学では技術顧問だった天知俊一さんにフォークボールの存在聞き、試行錯誤の末、フォークボールを会得するも、プロ入りして最初の2年間は、タイミングを外す程度の使い方しかせず、多 …
アメリカから帰国後は、この落差の激しいフォークボールを使うようになったのだそうです。
プロ入り3年目の1951年2月下旬、サンフランシスコ・シールズのキャンプで、ほぼ直角に落ちるフォークボールを編み出したという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、帰国後、シーズンで、”打撃の神様”と …
“打撃の神様”と称されていた川上哲治選手をして「捕手が捕れないのに打てる訳がない」と言わしめるほど、大きな落差のフォークボールを自ら編み出したという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、今回は、 …
杉下茂は29歳(中日ドラゴンズ入団6年目)の時に中日のリーグ優勝と日本一に大きく貢献していた
すると、杉下茂さんは、入団6年目の1954年、29歳の時には、キャリア最多の32勝を挙げるほか、奪三振王(273)のタイトルも獲得する活躍で、MVPに輝き、中日のリーグ優勝と日本一に大きく貢献したのでした。
ちなみに、杉下茂は、この年の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では、高校時代からの恩師で、中日ドラゴンズの監督だった天知俊一さんを日本一にさせたいという気持ちから、
1954年の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では、高校時代からの恩師で、中日ドラゴンズの監督だった天知俊一さんを日本一にさせたい一心で、普段は投げ控えていたフォークボールを40球以上投げたという、杉下茂(すぎした しげる)さ …
普段は1試合(特に巨人戦)に数球(多くて10球)しか投げなかったというフォークボールを40球以上投げたのだそうです。
味方の野手から「一人で野球やるな」「オレらにも野球やらせろ」と怒鳴られたほか、自身も直球で勝負したいという気持ちがあったことから、普段は1試合(特に巨人戦)に数球(多くて10球)しかフォークボールを投げなかったという、杉 …
1954年の杉下茂さん。
杉下茂は32歳(中日ドラゴンズ入団9年目)の時に通算200勝を達成していた
そんな杉下茂さんは、その後も、
- 入団7年目の1955年には、26勝
- 入団8年目の1956年には、14勝
- 入団9年目の1957年には、10勝
と、活躍。
プロ入り後わずか9年で通算200勝を達成したのでした。
(1950年代、国鉄スワローズ戦では、いつも、国鉄のエースとして君臨していた金田正一さんと投げ合いになり、名勝負を繰り広げたといいます)
日本プロ野球界で初めてフォークボールを本格的に習得し、その直角に落ちる球は「魔球」と呼ばれたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、1950年代、国鉄スワローズのエースとして君臨していた金田正一さんとは、いつも投手戦を …
杉下茂は33歳(中日ドラゴンズ入団10年目)の時に(兼任)監督に就任していた
そして、プロ入り10年目の1958年、33歳の時には、全盛期は過ぎていたとはいえ、11勝するのですが、
1958年シーズン終了後、兼任監督(実質的には監督専任)を要請され、監督に就任しています。
1954年には、32勝を挙げる活躍で、中日ドラゴンズ初のリーグ優勝と日本一に導いた、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後も、1955年は26勝、1956年は14勝、1957年は10勝、1958年は11勝を挙げているの …
杉下茂は36歳の時に現役を引退していた
その後、杉下茂さんは、1960年シーズン終了後、2年で監督を辞任しているのですが、
なんと、同年12月17日、かねてよりオファーされていたという、毎日大映(略称・大毎)オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で現役復帰。
ただ、1961年のシーズン(杉下茂さん36歳)は4勝しかできず、同年限りで現役を引退したのでした。
「【画像】杉下茂の監督・コーチ時代の経歴を時系列まとめ!」に続く
1958年のシーズン終了後、33歳にして、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)に就任した、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、2年で監督を辞任すると、次の年には、なんと、大毎オリオンズで現役復帰 …
1961年の杉下茂さん。
最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、ノーヒットノーラン1回を記録するなど、わずか11年で215勝した、杉下茂(すぎした しげる)さん。今回は、そんな杉下さんの凄すぎる成績をご紹介します。 「杉下茂は巨人コーチ時 …
1949年に中日ドラゴンズに入団すると、わずか11年で215勝をあげる活躍をするほか、日本プロ野球で初めてフォークボールを投げたことから、「フォークの神様」と称されている、杉下茂(すぎした しげる)さん。今回は、そんな杉 …
1963年、阪神タイガースの一軍投手コーチ兼ヘッドコーチに就任すると、ノーコンで解雇寸前だったジーン・バッキー投手を徹底的に指導して阪神のエースに育て上げ、 1975年には、巨人の一軍投手コーチに就任すると、1976年、 …