1978年、26歳の時、細野晴臣さん、坂本龍一さんと「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成すると、アメリカで大成功し、
その後、逆輸入という形で、日本でもシンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で一大ブームを巻き起こし、1980年には、自身が作曲した「ライディーン」が大ヒットを記録した、高橋幸宏(たかはし ゆきひろ)さん。
今回は、そんな高橋幸宏さんの、若い頃(YMO時代)の経歴をアルバムなど共に時系列でご紹介します。
「【画像】高橋幸宏の若い頃(サディスティック・ミカ・バンド時代)は?アルバムは?」からの続き
高橋幸宏は24歳~26歳の時に「サディスティックス」を結成するほかソロアルバム「サラヴァ!(Saravah!)」もリリース
高橋幸宏さんは、1975年11月に「サディスティック・ミカ・バンド」が解散した後は、1976年春、高中正義さん、後藤次利さん、今井裕さんと共に、フュージョン・バンド「サディスティックス」を結成し、
1977年6月には、1stアルバム「Sadistics」をリリースするほか、数多くのアーティストのレコーディング・セッションに参加していたそうですが、
1978年には、ソロ活動も開始すると、ソロとしての1stアルバム「サラヴァ!(Saravah!)」もリリースしています。
高橋幸宏は26歳の時にYMOとして1stアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をリリース
そんな中、同年(1978年)、高橋幸宏さんは、細野晴臣さんから誘いを受け、坂本龍一さんと共に、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成すると、
同年11月25日には、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をリリースしています。
高橋幸宏は27歳の時にYMOとして全米で人気を博していた
すると、このアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をアメリカのA&Mレコードのプロデューサーのトミー・リピューマ氏が気に入り、
日本でリリースしたアルファレコードとA&Mが提携し、1979年には、全米でも、トミー・リピューマ氏が立ち上げたホライゾン・レコードというレーベルからアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」が発売されることになったそうですが、
今度は、ロックバンド「チューブス」のメンバーが、このアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を聴いて、「おもしろい」と飛びつき、自分たちの公演の前座に高橋幸宏さんらYMOを指名したそうで、
YMOが前座を務めると、前座にもかかわらず、観客が総立ちしてアンコールを求めるほどの反響があったことから、この人気を受けて、すぐにYMOの単独ライブが決定したのだそうです。
高橋幸宏は27歳~28歳の時にYMOとして2度のワールドツアーを行うと世界的な大成功を収めていた
こうして、全米で大きな話題を呼んだYMOは、1979年から1980年まで、2度に渡るワールドツアーを行うと、世界的な大成功を収め、日本でも、逆輸入という形でYMO(テクノ)ブームを巻き起こしたのでした。
高橋幸宏さんは、そのことについて、
(アメリカから)帰国したら大騒ぎになっていた。サディスティック・ミカ・バンドのときとはあまりに違いすぎていて、驚きました。時代が変わったんですね。
翌年には、イギリスを皮切りに2度目のワールドツアーをスタート。当時人気だった「スター千一夜」というテレビ番組で、司会の坂本九さんが駆けつけてくれ、羽田空港から生放送で盛大に見送ってもらったことも覚えています。
と、語っています。
(1979年9月25日にリリースされた、2ndアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(SOLID STATE SURVIVOR)」は、オリコンチャート最高位1位を獲得するほか、日本国内での売り上げは累計102.1万枚を記録し、第22回日本レコード大賞優秀アルバム賞も受賞しています)
高橋幸宏は28歳の時に作曲したYMOの「ライディーン」が大ヒット
その後、YMOは、1979年10月25日、2ndアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(SOLID STATE SURVIVOR)」に収録されていた「テクノポリス」をシングルカット(1stシングル)すると、大ヒットし、
(「テクノポリス」は、坂本龍一さんが、「筒美京平さんがYMOの曲を作ったらどうなるか」というコンセプトで「単に売れる曲を書いてやろうと思って」作曲したといいます)
1980年6月21日には、同じく、2ndアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(SOLID STATE SURVIVOR)」に収録されていた、高橋幸宏さん作曲の「ライディーン」をシングルカット(2ndシングル)すると、こちらも、大ヒット。
ちなみに、「ライディーン」は、数多くのミュージシャンにカバーされるほか、CM、携帯電話の着信音、プロ野球での応援曲など、様々なメディアで使用され、1stシングル「テクノポリス」と並ぶ、YMOを代表する曲として親しまれています。
(特に、日本では、「テクノポリス」よりも「ライディーン」のほうが人気が高いそうです)
高橋幸宏は27歳~31歳の時にYMOとして「増殖」「BGM」「テクノデリック」「浮気なぼくら」「サーヴィス」が大ヒット
そんなYMOは、その後も、
- 1980年6月5日「増殖」
- 1981年3月21日「BGM」
- 1981年11月21日「テクノデリック」
- 1983年5月24日「浮気なぼくら」
- 1983年12月14日「サーヴィス」
と、次々とアルバムをリリースすると、いずれも大ヒットを記録しており、
高橋幸宏さんは、
80年代に入って「ライディーン」や「テクノポリス」がヒットしたころには、4枚のアルバム(「イエロー・マジック・オーケストラ」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」「増殖」「BGM」)が同時にベストテン入りし、まさに熱狂の渦の中に放り込まれたようでした。
僕らのファッションやテクノカットと言われた髪型などが社会現象にもなり、街を歩くことすらできなくなった。
と、この頃の人気の凄まじさを語っています。
ちなみに、アルバム「テクノデリック」は、これまでとは趣向の異なる実験的なアルバムで、ファンを裏切ってでも、もう1度自分たちのやりたいマニアックなことをしようとの思いから制作していたそうで、
最先端のサンプリング・マシーンのサウンドを取り入れるなど、前衛的、実験的なことを試み、YMOとして、音楽的にはやり切った感があったそうです。
高橋幸宏が31歳の時にYMOが散開(解散)
そして、1983年に、YMOは解散(YMOは「散開」と発表しています)しているのですが、
解散(散開)の理由は、坂本龍一さんと細野晴臣さんの仲が険悪になったからだそうで、高橋幸宏さんは、そんな2人の間に入って、仲を取り持っていたことから、とても神経をすり減らしていたといいます。
(解散後、長らく、高橋幸宏さん、細野晴臣さん、坂本龍一さんが、3人そろってメディアに姿を見せることはなかったのですが、1993年には、一時的に、再結成(YMOは「再生」と発表しています)すると、2007年には、再々結成しています)
「高橋幸宏のYMO解散後は?ソロアルバムは?スケッチショウやHAS以外は?」に続く
1970年代~1980年代、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」のメンバーとして、テクノにおけるドラムを確立すると、1983年、「YMO」解散(散開)後は、ソロアルバムをリリースするほか、他のアーティストとのユ …