高校3年生の時、ビートルズのコピーバンド「プレイボーイズ」を結成して音楽活動を始めると、大学進学後には、友人のバンドと合流して「ザ・バチェラーズ」を結成し、広島平和記念館でのリサイタルを成功させるも、東京進出には失敗したという、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、
その後も、ソロ活動や新バンド「ザ・ダウンタウンズ」で挑戦を続けるほか、「広島フォーク村」設立など精力的に活動すると、ついには、自主制作アルバムやソノシートを発売するまでになります。
今回は、吉田拓郎さんのプロデビュー前(アマチュア時代)についてご紹介します。
「吉田拓郎の生い立ちは?中学まで病弱も高校でバンド結成しギター!」からの続き
吉田拓郎は大学時代にバンド「ザ・バチェラーズ」を結成すると人気を博していた
高校3年生の時、ビートルズのコピーバンド「プレイボーイズ」として活動を開始した吉田拓郎さんは、大学進学後は、自身のバンド「プレイボーイズ」と友人のバンド「ザ・スカイラークス」を合流させて、「ザ・バチェラーズ」を結成すると、ドラムを担当したそうで、
1965年9月、「広島平和記念館」で初のリサイタルを開催した際には、900人を集める大盛況となり、翌年の1966年3月にも700人を集める成功を収めたそうです。
高校の時には、インストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成するほか、次々と女の子を好きになっては、その想いを曲にして、その子に渡していたという、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、大学進学後、新バンドを …
吉田拓郎は20歳の時に「ザ・バチェラーズ」として東京進出を狙うも失敗に終わっていた
そんな吉田拓郎さんは、この勢いに乗るべく、同年(1966年)4月には、東京進出を狙ってメンバーと家出して上京し、「渡辺プロダクション」に売り込んだそうですが・・・
相手にされなかったそうで、録音テープを残すも、連絡は来なかったのだそうです。
吉田拓郎は20歳の時に単身東京進出を狙うも失敗に終わっていた
そんな中、仲間はやる気が薄れていき、やがて目標を失った「ザ・バチェラーズ」は自然消滅したそうですが、
吉田拓郎さんは、諦めずにソロ活動を開始し、1966年、大学2年(20歳)の時、コロムビア主催のフォークコンテストに自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」で出場すると、中国大会2位、全国大会3位となったそうで、
再び、今度は単身上京し、東京の芸能プロダクションに売り込むなど、プロへの道を模索したそうですが・・・
またしても、うまくいかず、広島に戻ってきたのだそうです。
吉田拓郎は21歳の時に新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成していた
それでも、1967年、広島で、新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成し、定期的にコンサートを開催すると、やがて、人気を博したそうで、
同年(1967年)、「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」中四国大会ロック部門に出場すると、見事、優勝。
大学在学中に結成したバンド「ザ・バチェラーズ」が地元・広島で瞬く間に人気を博したことから、東京進出を試みるも、あえなく失敗に終わった、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、他のバンドメンバーがやる気を失っている中、吉田 …
ただ、米軍キャンプで演奏していたことが、“侵略基地の慰問”と批判され、全国大会出場を辞退せざるを得なくなったそうで、
吉田拓郎さんたちメンバーは、悔しさを胸に活動を続け、翌年の1968年の同大会ヴォーカル&グループサウンズ部門では、再び中四国大会に優勝し、全国大会へ進出したそうですが・・・
渋谷公会堂での全国大会では4位に終わってしまったそうで、以降、メンバーの士気は低下、活動は次第に減っていったのだそうです。
1967年、新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成し、広島カワイ楽器店を中心に定期的に無料コンサートを開くと、人気を博した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」では、米軍キャ …
吉田拓郎は22歳の時に「広島フォーク村」を提案していた
そんな中、吉田拓郎さんは、同年(1968年)11月には、「広島フォーク村」を提案して、精力的に活動を続けたそうですが、
学園闘争中の広島大学で、自作曲「イメージの詩」を披露すると、政治色を排した個人の思いを歌う姿勢が、一部学生に軟弱と受け取られ、非難されたといいます。
(それでも、吉田拓郎さんは、政治的連帯を促す関西フォークを好まず、自分の歌いたい歌を歌うために「イメージの詩」を作ったのだそうです)
「第2回ヤマハLMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」の全国大会で優勝を逃し、すっかりやる気を失ってしまったという、「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーの中、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんだけは、「広島フォーク村」を結 …
吉田拓郎は23歳の時に自主制作アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を発売して手売りしていた
また、吉田拓郎さんは、1969年、大学5年目には、カワイ楽器広島店へ就職が決まったそうですが、
「広島フォーク村」初代村長・伊藤明夫さんに誘われて上京し、上智大学全共闘メンバーが企画した自主制作アルバムに参加すると、
1970年3月には、自主制作アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」をユーゲントレーベルからリリースし、レコードを手売りしたのだそうです。
「広島フォーク村」の初代村長の伊藤明夫さんが東京で知り合った上智大学全共闘のメンバーと、自主制作で「広島フォーク村」名義のアルバムを制作することになり、アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を制作した …
吉田拓郎は24歳の時にインディーズレーベル「エレックレコード」からソノシートを発売していた
さらに、吉田拓郎さんは、同時期、自作曲「イメージの詩」が、インディーズレーベル「エレックレコード」のディレクターだった浅沼勇さんの目に留まり、
朝日ソノプレス社からソノシートが発売されています。
1969年、大学5年目(1年休学しているため)の時、就職が決まるも、「広島フォーク村」名義のアルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」の自主制作に参加し、レコードを手売りしていた、吉田拓郎(よしだ たくろ …
「吉田拓郎の生い立ちは?中学まで病弱も高校でバンド結成しギター!」に続く
1970年、24歳の時、シングル「イメージの詩/マークⅡ」でソロデビューすると、1972年にリリースしたシングル「結婚しようよ」が大ヒットとなり、 以降、シングル「旅の宿」、アルバム「元気です。」などをヒットさせるほか、 …