1964年、14歳の時、十四代目守田勘彌さんの養子となり、五代目坂東玉三郎を襲名すると、以降、圧倒的な美貌と卓越した演技力で歌舞伎界の立女形として確固たる地位を築いた、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さん。

そんな坂東玉三郎さんは、幼い頃、小児麻痺を患い右足に後遺症が残ったそうですが、踊ることが大好きな子供だったそうで、幼稚園は1日で辞め、日本舞踊を習い始めたといいます。

今回は、坂東玉三郎さんの、生い立ち(幼少期から「五代目坂東玉三郎」襲名まで)を時系列でご紹介します。

坂東玉三郎

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坂東玉三郎が幼い頃は小児麻痺を患い右足に後遺症が残るも踊ることが好きだった

坂東玉三郎さんは、東京・大塚で料亭を営む両親のもと、5人兄弟の末っ子として誕生すると(両親は再婚同士で、坂東玉三郎さんは2人の間の唯一の子供だったそうです)、1歳半の時に小児麻痺を患ったそうで、

1カ月半入院し、治療を受けたそうですが、右足のアキレス腱に後遺症が残ったそうで、活発に外で遊ぶことはなく、ままごと遊びを好む内気な少年だったそうです。

一方で、坂東玉三郎さんは、両親が営む料亭に出入りする芸者たちにとてもかわいがられたそうで、

そのマネをして三味線に合わせて踊るなど芸事に親しむと、3歳頃には邦楽のレコードを聴きながら母の羽織や風呂敷を巻いて踊るようになったそうです。

坂東玉三郎は幼稚園を1日で辞めていた

そんな坂東玉三郎さんは、幼稚園に入園したそうですが・・・

なんと、たった1日で幼稚園を辞めてしまったといいます。

坂東玉三郎は7歳の時に「菅原伝授手習鑑」で初舞台を踏んでいた

そんな坂東玉三郎さんは、幼稚園に行く代わりに、日本舞踊を習うことになったそうで、

歌舞伎役者の14代目守田勘彌(もりた かんや)さんの二人目の妻である藤間勘紫恵(ふじまかんしえ)さんのもとで稽古に励むと、

4歳の時には、「お月さま」という踊りを披露し、6歳の時には、師匠・守田勘彌さんの部屋子(内弟子)となったそうで、

1957年12月、7歳の時には、「坂東喜の字(ばんどうきのじ)」の名で、渋谷・東横ホールで「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の寺子屋・小太郎役で初舞台を踏んだのでした。

ちなみに、初舞台が歌舞伎座や新橋演舞場ではなく、あえて東横ホールだった背景には、坂東玉三郎さんが梨園出身ではなかったことや、師匠・守田勘彌の歌舞伎界での位置づけがあったからだと言われています。

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坂東玉三郎は14歳の時に「五代目坂東玉三郎」を襲名していた

その後、坂東玉三郎さんは、1958年~1959年には、子役として数多くの舞台に出演すると、

1964年、14歳の時には、「心中刃は氷の朔日」のおたま役で、五代目坂東玉三郎を襲名して、守田勘彌さんの芸養子として迎えられ、

(ただ、その襲名は、大々的なお披露目はなく、ひっそりと行われたそうです)

以降、守田勘彌さんから専門家としての自覚を求められ、朝から晩まで、踊り・三味線・お茶・義太夫・お花・ピアノなど多岐にわたる稽古に励む日々を、20歳頃まで続けたのだそうです。

「坂東玉三郎の若い頃は美少年ぶりで三島由紀夫らを魅了していた!」に続く

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