映画デビュー作品「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で、同じく監督デビューだった深作欣二さんと、運命の出会いを果たし、アクションドラマ「キイハンター」で大ブレイクした、千葉真一(ちば しんいち)さんですが、アクションは危険極まりないものが多く、危うく命を落としそうになったこともあったそうです。
「千葉真一の深作欣二との出会いは?キイハンターで大ブレイク!」からの続き
キイハンターでは死にかけていた
自ら好んで、深作欣二監督に提案し、危険なアクションを敢行していた千葉さんですが、中でも、走る車でセナスを追い、窓からセナスの翼に飛び移るシーンでは、
アクセルを離し、車が減速していったタイミングで、セスナに飛び移るはずが、その瞬間、足が車のハンドルにひっかかって抜けなくなってしまったそうで、足に神経が集中すればするほど、緊張のためか、余計に抜けなくなり、
ああ、この高さでコンクリートに頭から落ちたら死ぬな‥‥
と、死も覚悟したというのです。
ただ、逆にそれで意識が楽になったのか、自分の足から意識が消えたことで足がスコーンと抜け、無事、セナスに飛び移ることができたそうですが、
こうして、「キイハンター」は、千葉さん自ら提案した過去に類を見ない、多くの過激なアクションが人気を博し、大ヒットを記録。千葉さんは一躍、国民的人気俳優の地位を確立したのでした。
「キイハンター」より。
(ちなみに、アクションのほかにも、諜報部員だった「キャップ」こと黒木鉄也役を演じる丹波哲郎さんを「ボス」と呼ぶようになったのも、千葉さんのアイデアだったそうです)
人気絶頂の中「キイハンター」を降板
以降、「キイハンター」は、人気が衰えることなく、もともと1年の放送予定だったものが、5年も続いたのですが、
アイドル的な人気を誇っていた千葉さんが、このままイメージが定着することを恐れ、丹波哲郎さんに降板を申し入れると、
千葉が居ないのでは「キイハンター」は成り立たない。だったら一度番組を終わらせよう。
と、丹波さんが理解を示し、番組自体が終了。
千葉さんは、
丹波さんの決断にとても感謝している
と、後に語っておられます。
「キイハンター」より。千葉さん(左)と丹波哲郎さん(右)。
貧乏生活だった
ところで、千葉さんは、映画「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」でいきなり主演デビューすると、その後も、立て続けに「ファンキーハット」シリーズなど、主役で10本以上もの映画に出演されているのですが、
一見、トントン拍子のように見えて、実は、「東映ニューフェィス」はギャラが安く、29歳の終わりくらいまでは、質屋に通われていたそうで、
俳優というものは、こんなに貧乏するものか
と、思うくらい、生活は苦しかったそうです。
そして、1968年、29歳の時、「キイハンター」に出演され、一躍アイドル的な人気を博したことで、ブロマイドの売上が1位に輝くのですが、
「キイハンター」より。
月4本の撮影のため、寝る時間がほとんでない中で、激しいアクションをこなし、さらに、爆破シーンでケガをしたりと大忙しの中、ようやく、
おお、これだけ金がもらえるのか
と、千葉県にあるお父さんの家を建て替えることができたそうで、俳優で生活ができると思えるようになったのは、32~33歳の頃だったそうです。
「キイハンター」でブレイク後も高倉健の影響で硬派を貫いていた
ちなみに、千葉さんは、「キイハンター」でブレイク後、人気者となり、お金もたくさん入ってきても、
僕らは高倉派だったでしょう。健さんはそういうのはまったくないんです。いつも健さんと一緒でしたから。健さんと食事に行くと、あの人はお酒飲まないですから、コーヒーばかり飲んで。
だけど僕らに「おい、酒飲めよ」と勧めてくれる。そこで「あ、じゃあビールをいただきます」と、ビールを飲むぐらいでした。僕はあの方のそんな生き方が大好きでしたから、硬いほうでしたね。
と、高倉健さんの影響で硬派を通されており、山城新伍さんや梅宮辰夫さんのような武勇伝は、ほとんどなかったそうです。
「千葉真一は北大路欣也のワガママで仁義なき戦いの主役を交代させられていた!」に続く
若き日の千葉さん(左)と高倉健さん(右)。