大ブレイクするも、バンド内では数々のトラブルがあり、ついに、1971年、「ザ・タイガース」は解散しますが、沢田研二(さわだ けんじ)さんは、岸部一徳さんに誘われ、新たなバンド「PYG」に加入することになります。

「沢田研二のタイガース時代は加橋かつみと不仲だった!」からの続き

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沢田研二のみ押し出されていた

1966年3月、「渡辺プロダクション」による加橋かつみさんの脱退劇があったことで、メンバー間に不信感が芽生えた「ザ・タイガース」は、

1969年7月には、シングル「嘆き」をリリースするのですが、内容はというと、沢田さんのソロを思わせるような楽曲に仕上がっており、


嘆き

(この頃から、「グループ・サウンズ」ブームが急速に沈静化しており、沢田さんが、低迷にあえぐ「ザ・タイガース」から独立するのでは、との噂が流れ始めたそうです)

同年12月には、実際、沢田さんがソロアルバム「JULIE」をリリースすると、発売前に15万枚もの予約が入る大ヒット。


Julie

すると、その後も、「ザ・タイガース」がリリースするシングル「君を許す」(1969年12月)は、沢田さんのソロを匂わせるもので、もはや、「ザ・タイガース」は、5人のものではなく、沢田さんのためにあるような状態となると、

1970年7月からは、沢田さん単独のテレビ番組もスタートします。


君を許す

(「渡辺プロダクション」が、沢田さんを将来的にソロシンガーやタレントとして活動させたいと考え、バンド内であからさまに沢田さんを優遇し、ほかのメンバーを「バックバンド」として冷遇したそうです)

それでも、あくまでバンドとして活動したい沢田さんは、ソロになることを頑なに拒否。「ザ・タイガース」の解散に最後まで反対されたのですが・・・

「ザ・タイガース」が解散

そんな「ザ・タイガース」も、ついに、1970年12月7日には解散を表明し、翌年の1971年1月24日、日本武道館で解散ライブ「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を行うこととなると、

解散ライブの模様は、ラジオニッポン放送で3時間にわたって生中継され、1月30日には、テレビ放送(録画)されたのでした。


解散ライブ「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」より。

ちなみに、解散ライブの日、加橋さんは会場の客席に座っていたそうで、そのことを知った岸部一徳さんは、

今日が最後なんだから、彼にもステージに上がってもらって歌ってもらったらどうだ

と、言ったそうですが、

勝手に辞めた奴を呼ぶなら俺は降りる

と、瞳みのるさんが絶対反対の立場を取ったため、結局、加橋さんがステージに上ることはなかったそうです。

(ただ、この日の夜に内田裕也さんが開いてくれた食事会には、加橋さんも参加されたそうです)

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岸部一徳に誘われ萩原健一らと「PYG」に加入

その後、沢田さんは、「渡辺プロダクション」に解散前から準備されていた路線で音楽活動を継続されていたのですが、

依然としてバンドとしての活動に強くこだわりを見せていた沢田さんを、岸部一徳さんが、かねてより構想を練っていた「ニュー・ロック・バンド構想」に誘うと、

沢田さんは、

サリー(岸部さん)がいてくれるなら

と、加入を決意。

ところで、この「ニュー・ロック・バンド構想」とは、「ザ・タイガース」と人気を二分した「ザ・テンプターズ」「ザ・スパイダース」が同時期に次々と解散した後、

「ザ・テンプターズ」萩原健一さんと大口広司さん、「ザ・スパイダース」井上堯之さんと大野克夫さん、そして、「ザ・タイガース」の岸部一徳さんが、1970年末から、その頃すでに台頭していた「ニュー・ロック」のバンドを結成する計画を練っていたものなのですが、

沢田さんが加入後、グループ名は「PYG」と改名し、2月1日にデビュー。

沢田さんは、萩原さんとともにツイン・ヴォーカルとして、本格的なロックを目指されたのでした。

(ちなみに、「渡辺プロダクション」は、沢田さんをプロダクションに残すことが最も重要なことだったため、この新バンド「PYG」「渡辺プロダクション」に所属させるという条件で認めたそうで、「PYG」やメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」まで設立したそうです。)

「沢田研二の若い頃は「許されない愛」「危険なふたり」が大ヒット!」に続く

「PYG」。(左から)岸部一徳(当時は岸部修三)さん、大野克夫さん、萩原健一さん、沢田さん、井上堯之さん、大口広司さん。

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