近所でも美人で有名だった、年の離れた2人のお姉さんに憧れて育ち、16歳の時には、「ミス16歳コンテスト」に応募すると、見事入賞した、松原智恵子(まつばら ちえこ)さん。この後、松原さんの快進撃が始まります。

「松原智恵子は美人3姉妹でお金持ちのお嬢様だった!」からの続き

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女優デビュー後まもなくアクション映画のヒロインに抜擢

「ミス16歳コンテスト」で入賞して「日活」からスカウトされ、1961年1月、高校1年の3学期を休学して上京した松原さんは、早速、「夜の挑戦者」の端役(ワンシーンのみ)で映画デビューすると、3ヶ月も経たないうちに、ヒロインに抜擢。

(その年の松原さんの母校・名古屋市立桜台高校の文化祭は、デビューした松原さんをひと目見ようと、多くの人が殺到したそうです)

以降、

1961年「明日に向って突っ走れ」 
     「無情の夢」
     「野獣の門」
     「大当り百発百中」
     「紅の銃帯」
     「大平原の男」
     「セールスマン物語 男にゃ男の夢がある」


「紅の銃帯」より。

     「波止場気質」
     「追跡」
     「天に代わりて不義を討つ」
     「機動捜査班 秘密会員章」
     「一石二鳥」
     「北上夜曲」
     「大人と子供のあいの子だい」


「波止場気質」より。松原さんと川地民夫さん。

1962年「燃える南十字星」
     「抜き射ち風来坊」
     「さすらい」
     「地獄の夜は真紅だぜ」
     「二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児」
     「望郷の海」


「燃える南十字星」より。宍戸錠さんと松原さん。

と、怒涛のごとく、映画に出演されます。

最愛の父親が他界

そんな松原さんは、主にアクション映画のヒロインを演じられていたことから、比較的、時間に余裕があったそうで、長らく休んでいた高校に行くため、東京の菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)に編入。

そして、東京での生活も1年経って、女優としてやっていける目処がついた頃、松原さんを応援してくれていたお父さんが、撮影所の近くの東京都調布市に一軒家を建て、住み込みのお手伝いさんも雇ってくれ、松原さんが手軽に通えるようにと、軽自動車まで買ってくれることになり、松原さんは、その夏休みに自動車免許を取って、楽しみにしておられたのですが・・・

その夏(1962年、松原さん17歳)、またしても東海地方に大きな台風が襲来。2階のベランダの雨戸を外からはめようとしていたお父さんが、突風に煽られて吹き飛ばされ、庭の石で頭を打って他界。

軽自動車はお父さんが亡くなった後、届いたそうですが、これが、お父さんからの最後のプレゼントになってしまったのでした。

ちなみに、松原さんは、末っ子ということもあり、お父さんからとても可愛がられていたことから、しばらくはお父さんの死を受け止めることができなかったそうですが、

後に、松原さんは、

でも、そうした父のサポートがあったおかげで、私は余計なことも考えず、ただ女優という仕事にまい進することができたんですね。

と、語っておられました。

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日活3人娘~テレビドラマで人気爆発し1日100通のファンレター

その後も、松原さんは、アクション映画や青春映画のヒロイン役を多く演じると、吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに、「日活3人娘」と呼ばれて、清純派女優として日活映画の黄金時代を支え、

1960年代後半になって人々の関心が映画からテレビへ移ると、松原さんも、1966年、「山のかなたに」でテレビドラマデビューし、映画と並行してテレビドラマにも出演すると、

1967年のブロマイド売上は、吉永小百合さん、藤純子(現・富司純子)さん、和泉雅子さん、内藤洋子さんらを抑えて、女優部門で1位に。

また、1971年には、「日活」が一般の映画の製作を中断し、ロマンポルノに路線を変更したことから、「日活」を退社し、以降、テレビドラマをメインに活動するようになると、松原さんの人気はさらにうなぎ登りとなり、この頃には、1日100通ものファンレターが届くようになったのだそうです。

(自宅には、ファンレターの整理のため、郵便局内の整理棚のように、都道府県別に仕分けできる棚を作られたのだとか)

こうして、松原さんは、吉永小百合さんと視聴率競争を繰り広げるなど、各テレビ局から引っ張りだことなられたのでした。

「松原智恵子のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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