7枚目のシングル「夕陽が泣いている」が大ヒットを記録し、頂点を極めた「ザ・スパイダース」ですが、やがて、若手グループの出現に押されて人気が低迷し、解散。ただ、メンバーの中でもダントツの人気を誇っていた、井上順(いのうえ じゅん)さんは、ソロでもヒットを飛ばします。
「井上順は昔「スパイダース」で「夕陽が泣いている」が大ヒットしていた!」からの続き
「ザ・スパイダース」の人気が低迷
1966年9月に発売した7枚目のシングル「夕陽が泣いている」の大ヒットで、頂点に上り詰めた「ザ・スパイダース」ですが、1967年には、ライバルグループだった「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が「ブルー・シャトウ」で150万枚を売り上げる大ヒットを記録し、「日本レコード大賞」を受賞するほか、
同年夏には、「ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」といった、若手グループが次々と台頭し、グループサウンズブームを巻き起こすと、「ザ・スパイダース」の人気にも陰りが見え始めます。
そして、1969年になると、グループサウンズブームも失速するのですが、同年夏頃から、「ザ・スパイダース」も観客数が激減します。
(そのため、公演会場では、メンバー全員が仮装して臨むこともあったそうです)
徐々にソロ活動に移行
そんな中、もともと、個々のメンバーの人気が高かった、「ザ・スパイダース」は、1970年2月に、堺正章さんがテレビドラマ「時間ですよ」に出演すると、同月には、ムッシュかまやつ(かまやつひろし)さんもソロアルバム「ムッシュー/かまやつひろしの世界」をリリース。
同年4月には、堺さんがシングル「明日を祈る」(「堺正章とザ・スパイダース」名義)をリリースすると、井上さんも、シングル「人生はそんなくり返し」(「井上順とザ・スパイダース」名義)をリリース。
すると、やがて、井上さんと堺さんのスケジュールが過密状態となっていき、「ザ・スパイダース」は、2人を除く、5人編成で活動することが多くなっていきます。
「人生はそんなくり返し」より。
「ザ・スパイダース」が解散
その後、「ザ・スパイダース」は、1970年9月に発売した21枚目のシングル「エレクトリックおばあちゃん」が久しぶりのヒットとなるのですが、同年11月には、「ザ・スパイダース」の中心人物だった、ムッシュかまやつさんが脱退。
このことがきっかけとなり、「ザ・スパイダース」は、1971年1月、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」の出演を最後に解散したのでした。
「エレクトリックおばあちゃん」。
ソロシングル「お世話になりました」が大ヒット
一方、井上さんはというと、1971年4月、24歳の時、シングル「昨日・今日・明日」でソロ歌手としてデビューすると、レコードセールス30万枚超の大ヒットを記録。
同年9月に発売した、セカンドシングル「お世話になりました」も、週間シングルチャートで最高位17位を記録するなど、ヒットを連発したのでした。
「お世話になりました」。
(「お世話になりました」は、筒美京平氏が、井上さんの陽気なキャラクターを意識して、ほのぼのした親しみやすいメロディとR&B的なアレンジを融合して作曲と編曲をしたそうですが、大槻ケンヂさん、つじあやのさん、ET-KINGなどがカバーするほか、現在まで多くの音楽ファンに親しまれています。)
「井上順は「夜のヒットスタジオ」で芳村真理と黄金コンビだった!」に続く