2010年10月末、77歳の時に、「パーキンソン病」になるも、リハビリによって、回復し、レギュラーを務めていたラジオ番組「六輔七転八倒九十分」もギリギリまで続けていた、永六輔(えい ろくすけ)さんは、最後は在宅ホスピスを選択していたそうで、死因は「肺炎」ながら、実質「老衰」といってもいいほど、穏やかな最期だったといいます。
「永六輔はパーキンソン病だった!」からの続き
「パーキンソン病」によって字が書けなくなり歩行困難にもなっていた
永さんは、2010年10月末、「パーキンソン病」と診断されたことを公表しているのですが、
ろれつが回らなくなったことのほか、歩行も困難になり、字も書けなくなったそうで、一時は引退を考えたこともあったそうですが、
リハビリと投薬治療を続けた結果、劇的に回復したそうで、レギュラーを務めていたラジオ番組「六輔七転八倒九十分」の仕事も継続することができたそうです。
ただ、「パーキンソン病」の影響で転びやすくなったそうで、2011年11月16日には、都内の自宅で転倒すると、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)を骨折し、入院・手術したそうで、
入院中には、薬の影響から、渥美清さん、坂本九さん、奥さんほか、亡くなった人が、永さんのベッドを取り囲んでいる幻覚を見たほか、病院の廊下を演説して歩いていたこともあったそうです。
(いつ頃からかは不明ですが、前立腺ガンも患っていたそうです)
自分の最期は在宅ホスピスを希望していた
そんな永さんは、かつて、お父さんの最期を病院で看取ったそうですが、お父さんは「家に帰りたい」と言っていた中、病院で亡くなっており、しかも、永さんたち家族は、その最期を病院のモニターで見ていたそうで、
これをきっかけに、在宅ホスピスに興味を持つようになり、かねてから、自身は病院ではなく自宅で死にたいと思っていたそうです。
(在宅ホスピスとは、積極的な延命治療は行わず、人生の最終時期にある患者が、住み慣れた家で、心と体の苦痛を和らげながら、その人らしく生きれるように、家族も含め安心して生活できるための支援や方法のことをいい、永さんは、日本で最初に、在宅ホスピスに関心を持ち、勉強していたうちの一人だったそうです)
ちなみに、お父さんの最期を見ていたお母さんも、「私は家で死にたい」と言っていたことから、永さんは、お母さんを自宅で看取り、お母さんは、希望通り、自宅で、穏やかに、永さんの腕の中で息を引き取ったそうで、
それを見ていた妻の昌子さんも、自宅で最期を迎えることを望み、本人の希望通り、永さんと娘に囲まれて自宅で亡くなったそうです。
死因は「肺炎」も実質「老衰」で他界していた
こうして、永さんは、2016年7月7日午後1時57分、「肺炎」のため、83歳で、自宅で息を引き取っているのですが、
所属事務所によると、永さんは、レギュラーを務めていたラジオ番組「六輔七転八倒九十分」終了後の同年6月末から自宅療養に入っていたそうで、回復に向けて懸命にリハビリに励むも、だんだん気管の炎症が収まりにくくなっていたそうですが、医師からは、死因は「肺炎」ながらも、老衰といっていいほど、穏やかな最期だったと言われたとのことでした。
ちなみに、所属事務所は、
永六輔が亡くなりました。2016年7月7日(13時57分)、83歳でした。
再びラジオの番組でみなさまのお耳にかかりたいと自宅療養に専念しておりましたが、その思いを叶えることができませんでした。
6月末をもって「六輔七転八倒九十分」を終了すると決めてからも、みなさまにごあいさつの言葉だけでも届けたいと、回復に向けてリハビリの努力もして参りました。
しかしながら、徐々に気管の炎症が収まりにくくなり、肺炎により息を引き取りました。お医者様のお話ですと「死因は“肺炎”としますが、“老衰”と言っていい状況です」というように穏やかな最期でした。
葬儀は身内だけで済ませました。お別れの会を予定しておりますので、あらためてご報告いたします。
自分で行って自分の目で確かめる、自分で直接話を聞く。スタジオに持ち帰って自分の体験をリスナーの皆様にお届けする。それを自らの指針として活動してきた永六輔にとって、晩年、パーキンソン病のために行動が著しく制限されたことは大変な苦痛だったに違いありません。
あそこに行きたい、あの人に会いたいと、よく口にしていました。空いた時間にちょっと寄り道をして何かを発見するのが大好きな人です。車イスを押してもらって、まっすぐ目的地だけを訪れる旅ではさぞ不満足だったことでしょう。
それでも、これまでに出会ってきた、よいお医者さまとよい医療スタッフ、よい仲間に全力で応援していただき、励まされ、永六輔として納得できる人生のしめくくりであったと思います。みなさまには長い間、本当に心強い励ましをいただき、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
と、発表しています。
さて、いかがでしたでしょうか。
永六輔さんの、
- 年齢は?出身は?学歴は?本名は?芸名の由来は?
- 国籍は?
- 幼少期は身体が弱かった
- 病弱だったことを辛いと感じたことはなかった
- 栄養失調は実家の寺が貧しかったため
- 読書と寄席が学校がわりだった
- 戦争が始まり学童疎開した信州ではイジメられていた
- 東京大空襲で東京の下町の空が真っ赤に染まるのを見ていた
- 空襲で東京の家が焼失したことから終戦後も疎開先の信州に残ることに
- 疎開先の信州では貧しさからたくあん工場でアルバイトをしていた
- 医者から止められるも疎開したことで病気が治っていた
- 東京に戻ると近所の寺の世話になったあと父親の手作りのバラックに住んでいた
- 鉄クズ集めで小遣い稼ぎをしていた
- NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」のコントの賞金で稼いでいた
- 寄席をヒントにコントを書いていた
- 淀川長治との出会い
- 淀川長治からは一流のものを理解する教育を受けていた
- 淀川長治の教えを守り事務所に前借りしてでも本物に触れていた
- 淀川長治と和田誠と共に「四月一〇日の会」を結成
- 淀川長治から言われた忘れられない言葉とは?
- 淀川長治は1日1日を大切に生きていた
- 高校生の時には「松竹歌劇団」(SDK)のレビューに熱中していた
- 早稲田大学に進学するとすぐに「トリロー文芸部」のスタッフになっていた早稲田大学では中村八大と共にいつも学費滞納で掲示板に張り出されていた
- 三木鶏郎に言われ有限会社「冗談工房」の社長に就任
- 有限会社「冗談工房」は新しい時代を作ろうという活気に溢れていた
- 三木鶏郎により様々な経験をさせてもらっていた
- ディズニー映画の日本語版の制作に携わる
- ディズニー映画の声優の出演交渉をしていた国会議員の浅沼稲次郎に「わんわん物語」の声優の出演交渉していた
- 浅沼稲次郎からは断られるも・・・
- 浅沼稲次郎はラジオ番組「わんわん物語」のブルドッグ役を熱演していた
- 三木鶏郎からは葬儀委員長も頼まれていた
- 三木鶏郎の遺族には「アメイジング・グレイス」を反対されていた
- 三木鶏郎の仏式葬儀で中島啓江に「アメイジング・グレイス」を歌ってもらっていた
- 水原弘に提供した「黒い花びら」が「日本レコード大賞」を受賞
- 作曲家の中村八大に街でいきなり作詞を依頼されていた
- 中村八大が永六輔に作詞を依頼したのは偶然だった
- 「黒い花びら」は「ネリカン・ブルース」のB面で発売予定もお蔵入りとなっていた
- 「ネリカン・ブルース(練鑑ブルース)」はもともとは少年鑑別所で歌われていた歌だった
- 毎日新聞が厳しく糾弾したことから「ネリカン・ブルース(練鑑ブルース)」の発売は中止に
- 「ネリカン・ブルース(練鑑ブルース)」の歌詞とは
- 中村八大が「黒い花びら」をA面で発売するよう「東芝レコード」に直談判していた
- 「黒い花びら」は斬新すぎてヒットを予想されていなかった
- 「日本レコード大賞」のため中村八大は急遽「日本作曲家協会」に所属させられていた
- 坂本九に提供した「上を向いて歩こう」が大ヒット
- ヨーロッパではタイトルを読むことができずヒットしなかった
- イギリスで「SUKIYAKI」と改題したインストゥルメンタル版が大ヒット
- 「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」となった理由とは?
- アメリカでも「SUKIYAKI」はミリオンセラーの大ヒット
- 安保闘争に熱中していた
- 日米安全保障条約が成立し言いようのない挫折感に襲われていた
- 国会議員の浅沼稲次郎が右翼の少年に刺殺され衝撃を受けていた
- 「上を向いて歩こう」は失恋ソングだった?
- 坂本九とは「第3回中村八大リサイタル」で初めて会っていた
- 坂本九の「上を向いて歩こう」の歌い方は独特だった
- 坂本九の「上を向いて歩こう」の歌い方に激怒していた
- 作曲家の中村八大はロカビリー歌手の坂本九に目をつけていた
- 作曲家の中村八大は坂本九をイメージして「上を向いて歩こう」を作曲していた
- 周囲から褒められるもやはり坂本九の独特の歌い方に不安を感じていた
- 大ヒットは坂本九の邦楽的な歌い方のお陰?
- 坂本九にはスターになった後も厳しい態度で接していた
- 坂本九からは観客が少ない場所でも歌えるよう頼まれていた
- 坂本九は永六輔のレコード発売コンサートに一般客として来ていた
- 坂本九が「日本航空123便」の墜落事故で死去「日本航空123便墜落事故」は単独機で史上最悪の死者数を出していた
- 坂本九の慰霊のため飛行機が墜落した御巣鷹山に登っていた
- 坂本九の一周忌で挨拶
- 東日本大震災の被災地ではいつも「上を向いて歩こう」を歌っていた
- 「上を向いて歩こう」は世界中の人々に歌い継がれているスタンダード・ナンバー
- 作詞作品
- 著書
- 唯一出演した浅田飴のCMでは広告コピーも自ら書いていた
- 妻には一目惚れだった
- 結婚後も妻にべた惚れだった
- 妻が末期ガンで余命2、3ヶ月と宣告される
- 妻は在宅看護を希望していた
- 同じ話に何度も笑い転げる妻の姿を見て悲しくなっていた
- 妻・昌子の他界で15キロ痩せていた
- 妻の死後も妻宛のハガキを自宅に送り続けていた
- 娘は?
- 孫は?
- 新聞の投書欄でろれつが回っていないことを指摘される
- 「週刊女性」に隠し撮りされていた
- 篠田博之との対談で指摘されると加齢と入歯のせいだと言っていた
- 「パーキンソン病」によって字が書けなくなり歩行困難にもなっていた
- 自分の最期は在宅ホスピスを希望していた
- 死因は「肺炎」も実質「老衰」で他界していた
について、まとめてみました。
僕はね、死ぬことは怖くないんです。痛いのや苦しいのは嫌だけど、にっこり笑って死ぬならいい。
いいお医者さんにめぐり会うには、何人にも会うこと。ひとりの医者しか知らないのと何人も知っているのとでは、ぜんぜん違いますよ。「お医者さま」ではなく「お医者さん」と付き合うんです。
街を歩いていて、内装の趣味がよくて感じのいい病院を見つけたら、ふらーっと中に入って「何かあったときにお願いします。何丁目何番地の永です」ってあいさつしておくんです。患者としてそれくらいのことをしなきゃだめ。何もしないでいい死に方はできません。努力をしないと。これは死に方の修行です。
僕はこうやって病気になって世話になるまで、医者が大嫌いだった(笑)。でもね、内藤さん(在宅ホスピス医)は僕が今まで思っていた医者と違った。在宅で看取りをやっている女医さんに初めて出会ったんだけど、大変な苦労を抱えているだろうに、明るい笑顔で一生懸命がんばっていて。
と、とても良いお医者さんと巡り会うことができ、希望通りの亡くなり方をした永さんですが、
やはり、自分の最期くらい、医者や家族の周囲に気遣わず、自分の希望どおりにしたいものです。
「永六輔の生い立ちは?病弱で小学校に通うことが出来なかった!」