通算3085安打というNPB最多記録のほか、数々の史上最多記録を打ち立て、「日本球界のレジェンド」と称されている、張本勲(はりもと いさお)さん。

今回は、そんな張本勲さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列順にご紹介します。

張本勲

「張本勲の生い立ちは?中学時代に貧乏から脱出したくて野球選手を目指していた!」からの続き

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張本勲の10代の頃

高校1年生の時は暴力事件の影響で浪商野球部は1年間の対外試合禁止処分を受けていた

張本勲さんは、浪華商業高等学校(浪商)に進学すると、野球部に入部するのですが、張本勲さんが転校してくる直前、上級生が下級生を制裁する暴力事件を起こしていたことから、

野球部は9月から1年間の対外試合禁止処分を受けていたそうで、張本勲さんにとって甲子園は、3年生の春と夏しかチャンスがなかったそうです。

(張本勲さんが浪商に編入するにあたりお世話になったという中島春雄先生は、この暴力事件の責任を取って辞任したそうです)

高校2年生の時には巨人の水原茂監督から直々にスカウトされていた

それでも、張本勲さんは、1年生の時、一生懸命練習に励むと、2年生の時には、エースで4番を任されるようになり、2年生の一学期の終わり頃には、巨人の水原茂監督から直々にスカウトされたそうです。

ただ、せめて、高校だけは出てほしいという、お兄さんの意向に従い、断念したそうですが、

水原茂監督からの、

卒業まで待っている

という伝言を聞き、自信が湧いたそうです。

高校2年生秋の近畿大会大阪府予選で13試合で打率5割11本塁打を打つ活躍で注目を浴びていた

張本勲さんは、高校2年生の夏には肩を痛めてしまい、ピッチャーを断念したそうですが、前監督の中島春雄先生のアドバイスに従い、バッターに転向し、中島春雄先生の指導のもと、バッティングの練習に励むと、

秋の近畿大会大阪府予選、4番・センターで出場すると、13試合で打率5割11本塁打を打つ活躍で、打者として、プロ野球のスカウトから注目されるようになったそうで、巨人以外のプロ野球チームからもスカウトされるようになったそうです。

張本勲
高校時代の張本勲さん(左)。

高校3年生になる直前に濡れ衣を着せられて野球部を休部させられていた

しかし、張本勲さんは、高校3年生になる直前、朝鮮人嫌いの新部長にハメられ、下級生に対して暴力を指示したと、やってもいないことをやったと、濡れ衣を着せられて、休部命令を言い渡されたそうで、

チームの甲子園出場は認められたものの、張本勲さんは、高校3年生になっても甲子園出場は許されなかったそうです。

高校3年生の時にプロ野球10球団のオファーを受け東映フライヤーズに入団

こうして、野球部で起きた暴力事件の首謀者に仕立て上げられ、甲子園出場もできなくなった張本勲さんは、一時は自殺を考えるほどショックを受けたそうですが、

甲子園に行けなかった在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選抜チームに誘われ、韓国に遠征したことで、野球への情熱を取り戻すと、

帰国後は、プロ野球10球団からオファーが殺到したそうで、最終的には、東京への憧れから、東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)に入団することに決めたそうです。

(前年にスカウトしてくれた巨人の水原茂監督は球団社長と対立していたことから、巨人からはオファーはなかったのだそうです)

張本勲
東映フライヤーズ時代の張本勲さん。

19歳の時に新人王に輝いていた

そんな張本勲さんは、東映フライヤーズ入団後は、次のシーズンが始まる3月までの5ヶ月間、打撃コーチの松木謙治郎さんの指導のもと、右手の強化をし、右足のステップを小さくするなど、バッティングの矯正に励むと、

高卒の新人でありながら、1年目(1959年)から一軍に抜擢されたそうで、オープン戦ではいきなり6番レフトで先発出場すると、シーズン開幕後も一軍に定着し、6月23日からは4番に抜擢されたそうで、

このシーズン、最終的には、レギュラーとして125試合に出場し、打率2割7分5厘、13本塁打と活躍し、新人王にも選ばれたのでした。

張本勲の20代~30代の頃

36歳の時に巨人に移籍し王貞治とともに巨人のリーグ連覇に大きく貢献

その後も、張本勲さんは、東映フライヤーズで、9年連続を含む13度の3割をマークして、7度の首位打者に輝くと、1976年には、かねてより、憧れていた巨人に移籍し、長嶋茂雄監督のもと、王貞治さんと「OH砲」と呼ばれる活躍で、巨人のリーグ連覇に大きく貢献したのでした。

ただ、1979年には、左目の疾患のため、夏場に40試合ほど欠場し、77試合の出場に終わると、打率2割6分3厘、8本塁打と低迷し、それまでのキャリア最低の成績となり、戦力構想からはずれてしまいます。

張本勲の40代の頃(現役時代)

41歳の時に現役を引退

そんな張本勲さんは、1980年(40歳)には、ロッテに移籍すると、同年5月28日には、阪急ブレーブス戦において、前人未到の通算3000安打を達成。

また、9月28日には、近鉄戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成するのですが、翌1981年(41歳)には、現役を引退したのでした。

現役引退する張本勲

張本勲の40代(現役引退後)~80代(サンデーモーニング降板まで)

張本勲さんは、現役引退直後の1981年オフ、ロッテから監督のオファーを受けたそうですが、山内一弘監督を更迭してのオファーだったため、

尊敬する山内さんを押しのけて監督の座に就くのは私の生き方に反する

として、これを辞退したといいます。

そして、1982年から、東京放送の野球解説者、スポーツニッポン野球評論として活動すると、1983年オフには、再び、ロッテから、辞任した山本一義さんの後任として、再度、監督のオファーを受けたそうですが、この時も、

まだまだ半人前ですから

と、ベンチ裏から野球を勉強したいとの理由で再度、辞退したそうです。

(この時、後任監督として土橋正幸さんと稲尾和久さんを推薦したそうで、実際、稲尾和久さんが後任監督に就任しています)

また、1984年オフには、日本ハムから、1989年オフには、ロッテから3度目の監督オファーを受けたそうですが、日本ハムのオファーは辞退、ロッテのオファーは、球団が同時に監督を要請していた金田正一さんが、

どうせ張本はやらないから、ワシがやろう

と、先に就任を受諾したそうで、金田正一さんが監督に就任しています。

そんな張本勲さんは、2000年、報道番組「サンデーモーニング」のスポーツコーナー「週刊 御意見番」に、元日ハム監督の大沢啓二さんと共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演すると、その後、2021年まで、コメンテーターを続けています。

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張本勲の80代(現在)

「サンデーモーニング」のスポーツコーナーのレギュラーコメンテーター(御意見番)を2021年に降板後も、時々、コメンテーターを務めていた張本勲さんですが、

2024年5月28日、83歳の時、巨人の創設90周年を記念する「王貞治デー」の始球式で、久しぶりに公の場に登場すると、杖をつき、激ヤセしてすっかり老け込んだ姿だった為、SNSで話題となり、張本勲さんの体調を心配する声が多数上がりました。

ただ、張本勲さん本人は、週刊文春の取材に対し、

痩せたっていっても、もう年も年だからさ。大病したわけでもないし。病気だとかいう奴がいたら、『バカタレ! 元気だ』と言っといてくれよ(笑)

腰を痛めたんだよ。この春に手術して、もう治ったけどね。筋肉がもとに戻るのに、入院期間の3倍くらい時間がかかるらしくて。今は杖をついてどこでも出かけるし、酒もバンバン飲んでる。ピンピンしてるって書いといてくれ。

と、張本節全開で答えており、お元気にされているようです。

張本勲

お読みいただきありがとうございました

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