1949年に宝塚歌劇団に入団すると、宝塚在団中から数多くの映画に出演し、1953年に宝塚歌劇団退団後も、小津安二郎監督作品「東京暮色」「彼岸花」に出演するなど、スター女優として70本以上もの映画に出演し、日本映画界の黄金期を支えた、有馬稲子(ありま いねこ)さん。
今回は、そんな有馬稲子さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
有馬稲子が10代の頃は宝塚歌劇団に所属しながら映画女優としても活躍していた
16歳の時に「宝塚音楽学校」を受験し合格していた
有馬稲子さんは、1948年、16歳の時、仲の良かった友人に宝塚音楽学校を受験することを勧められたそうで、お父さんの暴力から逃れられるかもしれないと思い、「宝塚音楽学校」を受験すると、見事合格。
翌年の1949年には、36期生として「宝塚歌劇団」に入団すると、主に娘役として活躍しています。
1950年代、小津安二郎監督ほか、数多くの名匠たちの作品に出演し、日本映画の黄金時代を支えられた、有馬稲子(ありま いねこ)さん。今回は、そんな有馬さんの、知られざる激動の少女時代についてご紹介します。 Sponsore …
「宝塚歌劇団」時代の有馬稲子さん。
(有馬稲子さんは、実のお父さんからのDV(家庭内暴力)に苦しめられていました)
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19歳の時に「せきれいの曲」で主演に抜擢されていた
そんな有馬稲子さんは、1951年、19歳の時には、「寳塚(宝塚)夫人」で映画デビューも果たすと、同年7月には、映画「せきれいの曲」でいきなり主演に抜擢されます。
「せきれいの曲」より。原節子さん(左)と有馬稲子さん(右)。
有馬稲子が20代の頃は「東宝」「松竹」のスター女優として活躍するほか小津安二郎監督作品「東京暮色」「彼岸花」などにも出演
20歳の時に宝塚歌劇団を退団
そんな有馬稲子さんは、これで、芸能界でやっていけると思ったそうで、「宝塚歌劇団」に借金をして、一軒家を建てたそうです。
また、「宝塚歌劇団」には、”宝塚調”と呼ばれている、持って回ったようなセリフの言い方があり、これから女優としてやっていくなら、できるだけ”宝塚調”が染みつかないうちに辞めたいと思ったそうで、1953年3月25日付で、「宝塚歌劇団」を退団したのだそうです。
21歳の時には「東宝」のスター女優として活躍
こうして、有馬稲子さんは、「宝塚歌劇団」退団後の1953年、「東宝」に入社すると、大々的に売り出されたそうで、同年には、「ひまわり娘」「母と娘」「都会の横顔」「幸福さん」「愛人」など、次々と映画に出演。
すると、一躍、スター女優として注目を集めたのですが・・・
忙しい日々の中、次第に、自身の演技力に不安を感じるようになっていったといいます。
「幸福さん」より。
22歳の時には岸惠子、久我美子らとともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立
それでも、「東宝」は演技の勉強をする時間を与えてくれなかったそうで、これを不満に思った有馬稲子さんは、翌年の1954年、22歳の時には、「五社協定」に反発し、早くも、岸惠子さん、久我美子さんらとともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立し、自ら出演作を決めるようになったのだそうです。
(※「五社協定」とは、日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953年9月10日に調印した、専属監督・俳優らに関する協定。後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定。1971年をもって五社協定は自然消滅)
23歳の時に「松竹」へ移籍し岡田茉莉子とともに二枚看板女優として活躍
その後、有馬稲子さんは、1955年、23歳の時には、「松竹」へ移籍すると、「東宝」から移籍してきた、岡田茉莉子さんとともに、二枚看板女優として大活躍。
以降、70本以上の映画に出演し、日本映画の黄金期を支えています。
1953年、早々に「宝塚歌劇団」を退団した、有馬稲子(ありま いねこ)さんは、その後、「東宝」に入ると、大々的に売り出され、一躍、スター女優となられます。 「有馬稲子の若い頃は宝塚!養母の芸名・有馬稲子を受け継いでいた! …
25歳、26歳の時に小津安二郎監督作品「東京暮色」「彼岸花」に出演
ちなみに、有馬稲子さんは、小津安二郎監督からとてもかわいがられたそうで、1957年、25歳の時には「東京暮色」、1958年、26歳の時には「彼岸花」と、小津安二郎監督の作品に立て続けに出演しています。
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「東京暮色」より。
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26歳の時に映画「夜の鼓」の撮影中に今井正監督からイジメを受けていた
一方、今井正監督からはものすごくいじめられたそうで、1958年、26歳の時には、映画「夜の鼓」の撮影中、共演者の中で有馬稲子さんだけ、何度もやり直しをさせられるという、嫌がらせを受けたといいます。
1953年に「宝塚歌劇団」を退団し、映画女優に転身すると、以降、70本以上の映画に出演し、日本の映画黄金期を支えた、有馬稲子(ありま いねこ)さんですが、今井正監督からはイジメのような仕打ちに遭っていたといいます。 「有 …
「夜の鼓」より。
有馬稲子の30代~60代
有馬稲子さんは、1965年、33歳の時、「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を解散すると、その後は、宇野重吉さん主宰の「劇団民藝」に所属し、演技を基礎から学び直したそうですが、
1969年、37歳の時には、再婚と同時に「劇団民藝」を退団し、その後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍しています。
(有馬稲子さんは、1961年、俳優の中村錦之助(後の萬屋錦之介)さんと結婚するも、1965年に離婚。1969年には、実業家の河村三郎さんと再婚するも、1983年には離婚しています)
ついに、7年に渡る市川崑監督との不倫関係を清算し、1961年、歌舞伎の名門出身の萬屋錦之介さんと結婚された、有馬稲子(ありま いねこ)さんですが、セレブ婚とはいえ、梨園の妻として、昼夜問わずの家事労働に疲れ果ててしまいま …
人気スター・萬屋錦之介さんとセレブ婚を果たすも、梨園の妻という特殊な家柄や、錦之助さんが毎晩連れて帰ってくる10人以上のスタッフの接待に明け暮れる毎日に疲れ果て、4年も持たず離婚された、有馬稲子(ありま いねこ)さん。今 …
有馬稲子の70代~90代(現在)
そんな有馬稲子さんは、田園調布の自宅を引き払い払い、2007年、75歳の時から、横浜にある高級ケア付きマンションで一人暮らしをしているそうです。
日本の映画黄金期、銀幕のスター女優として人々に夢を与え続けるも、私生活は、有名監督との道ならぬ恋や、2度の結婚離婚と、決して幸せとは言えなかった、有馬稲子(ありま いねこ)さん。今回は、そんな有馬さんの現在についてご紹介 …
また、2013年7月17日、81歳の時には、宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道~いま新しき未来へ~」に、八千草薫さん、天海祐希さん、檀れいさん(司会を担当)達と共に出席しています。
そして、2014年、82歳の時には、宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入りを果たしています。
「宝塚音楽学校創立100周年記念式典」に出席する有馬稲子さん。
「宝塚歌劇団」の娘役から女優に転身し、戦後の日本映画を代表するスター女優として活躍された、有馬稲子(ありま いねこ)さん。今回は、そんな有馬さんの、日本人なら誰もが知る文豪とのエピソードや、デビューからの出演作品を画像を …