1959年、作曲家・中村八大さんとのコンビで作詞した「黒い花びら」が大ヒットを記録すると、1961年には、坂本九さんに作詞した「上を向いて歩こう」が、日本のみならず、世界中でも大ヒットした、永六輔(えい ろくすけ)さん。

今回は、そんな永六輔さんの若い頃の活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。

永六輔

「永六輔の生い立ちは?中学時代はコントで賞金稼ぎ!高校時代は三木鶏郎にスカウトされていた!」からの続き

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永六輔が20代の時は「黒い花びら」「上を向いて歩こう」が大ヒット

23歳の時に三木鶏郎が設立した「冗談工房」の社長に就任

高校卒業後の1952年、19歳の時、早稲田大学に進学後、正式に「トリロー文芸部」のスタッフとして採用された永六輔さんは、その後、仕事が忙しくなったことから、やがては、早稲田大学を中退すると、本格的に放送の仕事に携わり、夢中でコントを書き続けたそうで、

1956年4月、23歳の時には、三木鶏郎さんが設立した「冗談工房」の社長に就任したそうです。

24歳の時にディズニー映画の日本語版制作に携わっていた

その後、永六輔さんは、数々の番組の制作や構成を手掛けるようになると、放送作家として引っ張りだこになり、1957年、24歳の時には、日本初のディズニー映画の日本語版制作に携わったそうです。


そんな永六輔さんは、三木鶏郎さんからは、会社「冗談工房」の社長を任されるほか、日本初のディズニー映画の制作にも誘われるなど、若手だったにもにかかわらず、どんどん仕事を回してもらっていたのですが、

葬儀委員長まで頼まれたそうで、三木鶏郎さんからとても信頼されていたようです。

26歳の時には水原弘に提供した「黒い花びら」が「日本レコード大賞」を受賞

また、永六輔さんは、1959年、26歳の時には、新人歌手の水原弘さんのデビュー曲で、作詞を提供した「黒い花びら」がミリオンセラーの大ヒットを記録。

この大ヒットにより、水原弘さんは、「第1回日本レコード大賞」を受賞しているのですが、永六輔さんも、一躍、知名度を上げたのでした。

(永六輔さんは、放送作家だったにもかかわらず、作曲家の中村八大さんに街でいきなり作詞を依頼されて、「黒い花びら」の詩を書き上げたといいます)

「黒い花びら」の「第1回日本レコード大賞」授賞式
「第1回日本レコード大賞」授賞式より。(左から)中村八大さん、水原弘さん、永六輔さん。

ちなみに、この「黒い花びら」、当初は、「ネリカン・ブルース」という曲のB面扱いで、しかも、「ネリカン・ブルース」が公序良俗に反すると問題視されて、一旦、お蔵入りになっているのですが、

中村八大さんの尽力により、「黒い花びら」はA面としてリリースされ、水原弘さんも無事にデビューすることができたのだそうです。

(「ネリカン」とは、東京練馬区にある少年鑑別所(練鑑)のこと)


28歳の時には坂本九に提供した「上を向いて歩こう」が大ヒット

そんな永六輔さんは、1961年、28歳の時には、坂本九さんに提供した「上を向いて歩こう」も大ヒットしているのですが、「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」と改題されると、世界中で1300万枚以上を売り上げる爆発的なヒットとなっています。

永六輔と坂本九
永六輔さん(左)と坂本九さん(右)。

「上を向いて歩こう」は失恋ソングだった?

ちなみに、

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように

という、有名すぎる「上を向いて歩こう」の歌詞には、安保闘争や日米安全保障条約が成立して言いようのない挫折感に襲われた、当時の永六輔さんの気持ちが込められていたそうですが、

実は、永六輔さんが中村メイコさんに失恋した時の心情を歌った「失恋ソング」だったのでは、という話もあるそうです。

坂本九の独特の歌い方に激怒していた

また、永六輔さんは、坂本九さんが「上を向いて歩こう」を歌っているのを初めて聴いた時、ロカビリー風の坂本九さん独特の歌い方が嫌で激怒したといいます。

(坂本九さんは、もともと、ロカビリーを歌っていたのですが、永六輔さんはロカビリーが大嫌いだったそうです)

「上を向いて歩こう」のヒットを全く予測できなかった

ただ、「上を向いて歩こう」を作曲した中村八大さんは、ロカビリーを歌う坂本九さんをイメージしながら、「上を向いて歩こう」を作曲していたそうで、

永六輔さんが、中村八大さんに、歌手を変えてくれるよう訴えても、全く取り合ってくれなかったのだそうです。

そんな永六輔さんは、坂本九さんの独特の歌い方に不安を感じていたことから、「上を向いて歩こう」のヒットを全く予測できなかったといいます。

永六輔
(左から)永六輔さん、坂本九さん、中村八大さん。

坂本九が「上を向いて歩こう」の大ヒットでスターになった後も厳しい態度で接し続けていた

また、永六輔さんは、坂本九さんが「上を向いて歩こう」の大ヒットでスターになった後も、単なる流行歌手やアイドル歌手として終わってほしくないという親心から、会うたびに口うるさく助言をしていたそうですが、

(坂本九さんはそんな永六輔さんを煙たく思っていた様子だったそうですが)永六輔さんの気持は伝わっていたようで、坂本九さんからは、観客が少ない場所で歌えるチャンスを作ってほしいと相談されたこともあったといいます。

そして、1985年8月に、永六輔さんが、中村八大さんとレコード発売コンサートを小劇場「ジァン・ジァン」で行った際には、

坂本九さんは、自分でチケットを買い、立ち見客の一人として来てくれたそうで、コンサートが終わった後には、

『六・八・九(永六輔、中村八大、坂本九)トリオ』で、また歌いたいです

と、言ったといいます。

坂本九は「日航123便」の墜落事故で他界

しかし、それが、永六輔さんが、坂本九さんを見た最後となってしまったそうで、1985年8月12日、坂本九さんは、「日本航空123便」の墜落事故により他界してしまったのでした。

(その後、永六輔さんは、慰霊のため、飛行機が墜落した御巣鷹山に登り、坂本九さんの遺体が発見されたという場所まで行ったそうで、1周忌の法事の際には、挨拶もしたそうです)

永六輔が30代の時は「こんにちは赤ちゃん」「帰ろかな」「二人の銀座」が大ヒット

その後も、永六輔さんは、

  • 1963年(30歳)「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよさん)
  • 1965年(32歳)「帰ろかな」(北島三郎さん)
  • 1966年(33歳)「二人の銀座」(和泉雅子さんと山内賢さんのデュエット)

など、作詞した曲が大ヒットとなっています。

永六輔
「こんにちは赤ちゃん」より。

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永六輔の40代の頃~80代(死去)

そんな永六輔さんは、その後も、放送作家、作詞家、著作家として幅広く活動していたのですが、2010年、77歳の時には、「パーキンソン病」と診断されると、懸命なリハビリの末、劇的に回復し、レギュラーを務めていたラジオ番組「六輔七転八倒九十分」も続けていたのですが・・・

2016年7月7日午後1時57分、肺炎のため、83歳で他界されたのでした。

お読みいただきありがとうございました

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