1978年、ソロアルバム「ファーストステップ」でレコードデビューすると、その後は、ソロ活動のかたわら、様々なミュージシャンの作品にサポートギタリストとして参加するほか、作曲、編曲家(アレンジャー)としても携わり、
ロック、ブルース、ジャズ、フュージョン、J-POPなど、あらゆるジャンルの音楽に対応してきた、大村憲司(おおむら けんじ)さん。
今回は、そんな大村憲司さんの、若い頃(ソロデビュー)から他界されるまでの代表曲やアルバム、経歴を時系列でご紹介します。
「大村憲司の生い立ちは?デビュー前はギターでフィルモアウェスト!赤い鳥も!」からの続き
大村憲司は28歳~29歳の時にギターインストアルバム「ギター・ワークショップ Vol.1」「アランフェス協奏曲」をリリース
大村憲司さんは、1977年には、渡辺香津美さん、森園勝敏さん、山岸潤史さんとセッションした、ギターインストアルバム「ギター・ワークショップ Vol.1」を、リリースすると、
1978年には、渡辺香津美さん、深町純さんらとセッションした「アランフェス協奏曲」をリリースしています。
大村憲司は29歳~34歳の時にソロアルバム「ファーストステップ」「KENJI-SHOCK」「春がいっぱい」「外人天国」をリリース
また、1978年、ファースト・ソロアルバム「ファーストステップ」を、リリースすると、
その後も、
- 同年(1978年)には、2枚目のアルバム「KENJI-SHOCK」
- 1981年には、3枚目のアルバム「春がいっぱい」
- 1983年には、4枚目のアルバム「外人天国」
と、リリースし、
3枚目のアルバム「春がいっぱい」では、それまでのフュージョン・スタイル(ジャズを基盤にロック、ラテン、ソウル、クラシックなど様々な要素を融合させた音楽)から、一転、大村憲司さんのポップ・センスが発揮された一枚となっています。
大村憲司が31歳の時にはYMOのサポートギタリスト
また、1980年には、高橋幸宏さんから誘いを受け、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のサポート・ギタリストとして、YMOのアルバム「X∞増殖」や、2度目のワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」に参加するほか、
YMOが人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」に初出演した際も、サポートメンバーとして出演しています。
ちなみに、大村憲司さんは、YMOのワールド・ツアーでは、自身の3枚目のソロアルバム「春がいっぱい」の収録曲「MAPS」の演奏も披露しています。
大村憲司は32歳の時にアレンジャーを務めた山下久美子のアルバム「赤道小町ドキッ」がオリコンチャート2位の大ヒット
そんな大村憲司さんは、YMOへの参加がきっかけとなり、プロデュースやアレンジの仕事が増えていったそうで、
1981年には、山下久美子さんのアルバム「赤道小町ドキッ」にアレンジャーとして参加すると、オリコンチャート最高2位を記録する大ヒットとなり、アレンジャーとしての幅を一気に広げています。
「赤道小町ドキッ」
大村憲司は36歳~46歳頃まで沢田研二、井上陽水、山下達郎らのセッションギタリストとして活動していた
そんな中、1984年には、自己の音楽性や人生を見直そうと、生まれ故郷の神戸に戻り、一時、音楽活動を休止したそうですが、
1985年には、復帰すると、以降、「大村憲司&ジューク・ジョイント・ブルース・バンド」「神戸バンド、ケンポン・バンド」を結成し、活動。
また、沢田研二さん、井上陽水さん、柳ジョージさん、山下達郎さん、中森明菜さん、本田美奈子さんほか、幅広いアーティストの楽曲に、セッションギタリストとして参加し、
特に、1980年代後半から1990年代前半にかけては、工藤静香さん、とんねるずなど、後藤次利さんが作曲・編曲した作品に数多く参加しています。
大村憲司は49歳で死去
しかし、大村憲司さんは、1998年11月18日、肝硬変(アルコール性肝疾患)により、49歳の若さで他界されています。
「大村憲司の死因は?しし座流星群の極大時に死去!病院に行くも手遅れだった!」に続く
ロック、ブルース、ジャズ、フュージョン、J-POP、と様々なジャンルの曲を弾きこなし、セッションワークで多くのミュージシャンから絶大な信頼を得ていた、大村憲司(おおむら けんじ)さんですが、1998年、49歳という若さで …