1964年、明治大学入学2日目にして、軽音楽部に勧誘するため声をかけて以来、半世紀以上、妻の阿木燿子と共に活動しているという、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さんですが、今回は、そんな二人の仲良しでいられる秘訣を二人のコメントを交えてご紹介します。
互いに尊敬し合える関係
阿木燿子さんに初めて出会った時、運命を感じ、7年後に結婚したという宇崎さんは、2021年に結婚50周年(金婚式)を迎えるなど、結婚生活はとても順調のようで、
コロナウィルスによる自粛期間中には、かつてないほど、一緒にいる時間が増えたそうですが、それでも、ケンカをすることは一度もなく、
宇崎さんが、
それどころか、ありがとうを何度言ったかわからない。自分の好きな空間で、好きな人がいて、好きな仕事をやっているんだから文句はないよ。
と、語ると、
阿木さんも、
私たちは自由業同士で距離の取り方に慣れているからかも。普段、ご主人はお勤めで昼間いないのに、今回ずっと一緒、なんていう人は大変だったと思う。身近にいればいるほど、尊敬できないとつらい。
と、同意して、
尊敬って大事よね。愛情は時に支配的になることもあるけれど、尊敬し合っていたら、同じ空間で呼吸していることが苦しくない。
と、語っており、
お互いに尊敬し合える素晴らしい関係を築いているようです。
互いに切磋琢磨できる関係
また、宇崎さんは、
作曲したら、まず妻に聴いてもらう。『ピンとこない』と言われたらやり直し。70歳を過ぎてからは『これが遺作になるかもしれないよね。遺作になっていいの?』に変わった。
誰からのプレッシャーよりも厳しいですよ。これまでの成功にあぐらをかけないですね
と、語っており、
今もなお、お互い、音楽家として切磋琢磨できる関係なのだそうです。
夫婦仲良しの秘訣とは?
そして、宇崎さんは、夫婦が仲良しでいる秘訣を、
- 自分たちは4分の1人前だという意識を持つこと
- 夫婦でもお互い敬語で!
- 相手に要求しない
- 相手に押し付けがましくしない
と、語っており、
これを守っているお陰で、全くケンカをしないのだそうです。
さらに、宇崎さんは、
彼女にとって「欠くべからざる存在」であり続けられるよう、精進していかねばと思っています。嫁に「もういいわ、この人」って思われたらアウトですから(笑)
とも、語っており、
安心感の上にあぐらをかかず、程よい緊張感を保っているのが、ずっと仲良しでいる秘訣のようです。
ちなみに、二人には子供はいませんが、これまで共に生み出してきた数々の作品が二人の子供たちなのかもしれません。
さて、いかがでしたでしょうか。
宇崎竜童さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 母親は戦争中の妊娠で中絶する予定だった
- 幼少期・少年期は戦後の復興期にもかかわらず裕福に育っていた
- 少年時代はエルヴィス・プレスリーの大ファンだった
- 中学・高校時代はブラスバンド部でトランペット
- 大学1年生の時にトランペットでクラブバンドのレギュラーメンバーに抜擢される
- 大学在学中にはビートルズに憧れ350曲もの作曲をしていた
- 大学卒業後はオフィス用品の販売会社「内田洋行」に就職するもすぐに退職していた
- 義兄が経営する「大橋プロダクション」で本格的に作曲家を志していた
- 「大橋プロダクション」が倒産
- バンドデビューのオファーを受けるも裏方という立場上辞退していた
- 別の機会にもバンドデビューのオファーを受けるも到底無理と断るつもりだった
- 泉谷しげるを見て自信がつきバンドデビューのオファーを受けていた?
- 「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成
- 「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」のスタイルは「キャロル」(矢沢永吉)とかぶっていた
- リーゼント&タキシードに変更するも・・・
- 「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の衣裳がつなぎになった理由とは?
- 「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がミリオンセラーの大ヒット
- 「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はもともとはアルバムの収録曲だった
- 妻の阿木燿子は「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞を閃きで書いていた
- 山口百恵に提供した「横須賀ストーリー」が大ヒット
- 「横須賀ストーリー」は山口百恵サイドから作曲の依頼を受けて作られたものだった
- 「横須賀ストーリー」では”アイドル歌手・山口百恵”のイメージを壊すことを目指していた
- 「横須賀ストーリー」は阿木燿子の歌詞を見た瞬間メロディが浮かんでいた
- 「横須賀ストーリー」はもともとは山口百恵のアルバム「17歳のテーマ」の収録曲の予定だった
- 「横須賀ストーリー」がシングルカットされた理由とは?
- 「横須賀ストーリー」はイタリア映画「太陽の下の18才」の「サンライト・ツイスト」をイメージしていた
- オファーが山口百恵本人の希望という噂を信じていなかった
- 山口百恵は自らの希望で宇崎竜童&阿木燿子に楽曲の制作を依頼していた
- 山口百恵は「ダウン・タウン・ブキウギ・バンド」の「涙のシークレット・ラヴ」が大好きだった
- 山口百恵に提供した「プレイバック part2」が大ヒット
- 「プレイバック part2」は瞬時にできた曲だった
- 1ヶ月で38曲作曲したことも
- 山口百恵とは私的な交流は一切なく電話番号も知らなかった
- 山口百恵と親しくしなかった理由とは?
- 宇崎竜童&阿木燿子プロデュースの「Ay曽根崎心中」に山口百恵の長男・三浦祐太朗が出演
- 出演作品(映画)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 監督作品(映画)
- 受賞歴
- 「痛くない死に方」に出演
- 音楽活動
- 妻・阿木燿子との馴れ初めは?
- 阿木燿子を一目見た瞬間に運命を感じていた
- 会う度に阿木燿子にプロポーズし続け7年で結婚
- おしどり夫婦
- 妻・阿木燿子の手料理が一番のご馳走
- 互いに尊敬し合える関係
- 互いに切磋琢磨できる関係
- 夫婦仲良しの秘訣とは?
について、まとめてみました。
2016年頃から、阿木さんと、終末医療の話もするようになり、
一緒に死ねたらいいね、一生一緒にいようね
と、言い合っているという宇崎さんですが、
(1970年後半から80年代にかけて)当時は歩いていると道に音符が落ちていたほど。それを手にのせて、大事に持って帰って五線譜の上にパッと振りかけると、曲が出来上がる。魔法みたいなものだった
と、神がかった才能を発揮できたのも、自身の天賦の才能はもちろんのこと、阿木さんとの関係がそれを開花させたのかもしれません。